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人間の行動と種の保存

序言

これは人間のあらゆる行動をコンピュータに統一的に理解させるための試み、あるいはその第一歩である。人は何のために生きるのかという問いから始めよう。その日暮らしの人は、生きるために食うのか、食うために生きているのか解らなくなっている人もいれば、お金のために生きているような人もいる。何のために生きているのか解らなくなって悩んでいる人もいる。何のために生きているのかという答えには、多種多様の答えが返ってくるだろうしこんな質問に科学的な解答がえられるわけがないと思うかもしれない。結論から言うと「すべての人間は、人間という種の保存のために生きている」。つまりすべての人間は人類のために生きているのであり、それが唯一の目的であると結論しよう。
 こんなことを言っても誰も同意しないであろうし、反論を山と浴びるのは間違いない。確かに人類のために生きたシュバイツアー博士のような人はいるし、ノーベル平和賞を受けるような人は人類のために生きたといえるかもしれないが、すべての人がそうだというのは言い過ぎではないかと反論があるだろう。人間は数多くの犯罪を犯してきた。戦争、自殺、殺人、テロ、果ては大量殺人まで行った人間がいる。このような犯罪者まで種の保存のために生きたとはとても言えないと思うかもしれない。しかし一歩離れ、人間を一生物として見たときに極悪非道と思える行動までが、種の保存にとって意味のある行動なのである。つまり良い人ばかりでなく悪い人の行う行動までもが人間という種の保存という観点から考えると立派に意味を持つ行動である。

 人間の脳は2枚の記憶ボードのようなものを持っている。1枚目は通常の記憶でありコンピュータのデータに相当する。もう1枚がどのような行動をとるべしという命令を記憶するボードでありコンピュータで言えばプログラム部分の記録に相当する。これらには書き換え自由な部分(RAM)と一回だけ書き込みができる部分(R)と書き換えができない部分(ROM)からなる。プログラムに相当する命令記憶は一般には知られていない第2の記憶であるが、これを詳しく調べることにより、無意識の世界等を含む深層心理の実態や夢、催眠といったものの持つ意味が明らかとなり、人間の行動の一つ一つが種の保存という見地からどのような意味を持つかという理解が可能となる。この2枚の記憶ボードの性質は著しい違いがあり、それが人間の環境への適応能力を高める結果になっている。

 このような人間の行動の意味の理解は、将来我々の社会をどのように変えて行けばよいのかという問題に関して科学的に明快な解答を与えてくれる。

 


人の思想と行動を支配するディスクリミネータ

第二章 人の思想と行動を支配するディスクリミネータ

 高校のとき二次方程式を習った人は判別式Dのことを思い出してほしい。二次方程式の解の種類を判別するもので、Dが正か零のときは解は実数で負のときは解は虚数になる。

 人間にもディスクリミネータDが備わっていてその人の行動が種の保存に好ましいかどうかを判別する。人が種の保存に好ましいことをすればDの値がプラスになり、好ましくないことをすればマイナスとなる。人間の行動も考えもこのディスクリミネータに支配される。だれもディスクリミネータに逆らって行動をすることができないのはもちろんだが、人間の思想もがんじがらめにディスクリミネータに拘束されている。戦前の日本では軍隊の批判は許されていなかった。思想統制である。しかしそれでもごく一部にその批判をする人がいた。ディスクリミネータは人間に種の保存にとって好ましくないような思想を持つことを厳しく禁じている。これは戦前の軍隊に対するの批判を禁じる思想統制の比ではない。この何万倍も強い締め付けであり、実際これを破る人は言論が自由になった今日でも皆無といってよい。どんな思想家もディスクリミネータに命ぜられる論理を展開しているにすぎない。だからこそ人間という種が保存されるのであり、ディスクリミネータに逆らう自由があるならば、人類を滅亡させる思想をとなえる事も自由になってしまう。自分はあらゆる拘束から離れ、自由な思想を展開できると自負する人のために簡単な例を挙げてみよう。

 「家畜を人間の食料にする」ということは、全く自然に受け入れられ日常普通に行われていることである。それではその逆はどうだろう。つまり

「人肉を家畜の餌にしよう」

という考えを持った人の話は聞いたことがない。数学者であれば、どの命題であってもその逆を自由に考えることができる。しかしどんなに自由に思想を展開できる人でもこんなぶっそうな思想を持つことはできない。つまり「人肉を家畜の餌にしよう」という考えの逆はどんな凶悪な殺人犯の心の片隅にすら思いつかないことである。このことはいかにディスクリミネータによる思想統制が強烈であるかがわかる。この例は自分は自由奔放な思想を展開していると思っている人でも、その実態は、ディスクリミネータに雁字搦めに縛られた中での思想の展開にすぎないということを示しているのである。

我々の思考は川の中でボートを漕ぐことと類似している。漕いでいる本人はどちらの方向でも自由に進むことができると錯覚しているが、実際は川の流れが速いためにどちらに漕いでも下流の方にしか進まない。それどころか、下流方向に進んだほうがどんどん進行するので好んで下流の方向に進んでいく。つまり我々の思考というものは生まれながらにして厳格に方向づけられているのである。

 ディスクリミネータによる思考の支配は状況によっては強烈になる。例えば飢餓に瀕すと強制的に食べ物のことばかり考えるようにさせるし、適齢期に好みの異性が現れたときはその異性のことばかり考えるよう命ずる。

 幸福と感ずる時がディスクリミネータが正になるときである。例えば恋人ができた、結婚した、子供ができた等というとき人は種の保存に好ましいことをしたのだから幸福と感じディスクリミネータは正となる。逆に不幸と感ずるのはディスクリミネータが負になるときである。例えば家族や知人の死や、病気にかかったときなど種の保存には好ましくない事態であるのでディスクリミネータは負となる。ディスクリミネータは種の保存に対する貢献度が大きいほどプラスが大きくなる。例えば結婚・出産などは最大値に近いであろう。逆に種の保存に大きな害をもたらすような場合、ディスクリミネータは大きな負の値となる。例えば子供が死んだときの母親は大きな不幸を感ずる。同じ死でも老人が老衰で死んだ場合は世代交替なのだからずっと冷静である。将来ディスクリミネータが実際に何らかの形で測定できるようになれば、様々な応用ができるようになると期待される。

結論:幸・不幸は種の保存に好ましいことをしたか、好ましくないことをしたかで決まりディスクリミネーターがそれを判定する。ディスクリミネータが正のとき幸福を感じ、負のとき不幸を感じる。

   人はディスクリミネータを正にするための行動を行い、負にするような行動を避けようとする。

ディスクリミネータは人の行動を支配するだけでなく、思考も支配する。

 快・不快に対しても同様である。腹が減ってくると不快になる。そのまま食べないと死んでしまうのだから種の保存に有害でディスクリミネータは負となる。そこで食べ物を発見するとディスクリミネータが正に転ずる。つまり快感はディスクリミネータが正で種の保存に好ましいとき、不快感はディスクリミネータが負で種の保存に好ましくないときに感ずるのである。

 このようにディスクリミネータが人間の行動を支配しているのだが、ディスクリミネータの正負が必ずしも行動に結び付かない場合がある。美味しそうなものが目の前にあってもすぐに食べ始めるとは限らない。まわりに遠慮する場合もあるし、食事時間まで待つ場合もあるだろうし、食べたくてもお金が足りないときもあるだろう。ディスクリミネータは行動を誘発するだけで即座に行動を起こさせるのではない。

 人間のディスクリミネータには沢山の種類のものがある。成長の過程、社会環境の変化に伴いディスクリミネータは変化する。また人によりディスクリミネータにばらつきがありこれが、種を構成する個体が様々な行動をする原動力となり環境の変化に種全体として適応する能力を高めている。ある場合は対立する2つあるいは数種類のディスクリミネータのバランスの上に行動が支配されることもある。

 ディスクリミネータは次のように分類できる。これはCDやDVD等のコンピュータの記憶装置と比較すると分かりやすい。これらの主なものにはデータの読み出しと書き込みの両方できるRAM、読み出ししか出来ないROM、一回だけ書き込みができるRがある。CD-ROM、CD-R等の言葉は聞いた事がある人も多いだろう。

○一次ディスクリミネータ

 これは生得的でROMに相当するのでDIS-ROMと呼ぶ。すべての個体に共通に認められるものであり、種の保存に直接的にかかわるものであり、その中に個体保存に関係するものと子孫を残そうとするものと同じ種の個体と助け合おうとするものがある。

[1]個体保存(自己保存)は呼吸、水分補給、食料補給、排泄、睡眠、休養等に関係したものである。

[2]子孫を残そうとするものの中には、恋愛、育児、教育等がある。

[3]同じ種の個体を助け合おうというものは正常な社会生活を送るために必要なものである。

これらは人間の行動の基本になるものであり、正常な個体であればすべて共通であり変化しない。例えば知覚、味覚、嗅覚、触覚、性欲等がある。

○二次ディスクリミネータ

 これはRとかRAMとかに相当するのでそれぞれDIS-R、DIS-RAMと呼ぶ。その個体が生活する社会に適応できるように徐々に形成されていく。乳児にはお札も紙切れも区別はつかないが、成長するにつれこれが欲しい(一次ディスクリミネータにより誘発される行動)ものと交換できることを知り、お金に対しプラスを示すようになる。

新しいお札が発行されるとすぐに新しいお札を欲しがる(ディスクリミネータの判断の基準の変更)ことからわかるように、これは書き換え自由なDIS-RAMに相当する。日常生活で極めて簡単に頻繁に書き換えられている。一方、おねしょはいけませんと教わると一生その習慣が身につく。これは一度書き込んだらそれ以後は変わらないDIS-Rタイプである。このように二次ディスクリミネータも一旦書き込まれるとそれ以後は変わらないものと、何度でも書き換えが自由なものとがあることがわかる。生命が危機に曝されたときのような場合や、一生を左右する重大事のように極度の緊張を伴った場合、記憶にも二次ディスクリミネータにも鮮明に書き込まれるし二度と消えることはない。つまりDIR-Rに書き込まれるのである。ガチョウは最初に見た動物を親だと思い込み、ずっと付いて行くようになる。実際はほとんどがそれが実際の親だから問題ないのだろうが、人を最初に見るとその人にずっと付いて行くようになる。これを発見したコンラッドローレンツはこれをimprintingと呼んだ。これもDIS-Rの例である。

 脳にこれらは書き込まれるのであるが、これらは記憶とは異なっている。おねしょをしない習慣が身についていても、実際いつどのようなきっかけでそのような習慣を身につけたかは忘れてしまった後にもその習慣だけは残る。これは記憶では消滅したがディスクリミネータは残った例である。

 実際ディスクリミネータの書き込みは毎日行われておりその量は膨大である。これが記憶とは独立しているためにその多くはどのようなきっかけでディスクリミネータの書き込みが行われたかが記憶されていない。いやな事は忘れる傾向が強いことは、いやな事はディスクリミネータが思い出さないようにと命令しているのである。いやな事でなくてもいつの間にか記憶は消えディスクリミネータのみ残ることもある。このような場合は自分でも分からない意味不明の行動を取ることになる。

 

これで解るように通常の記憶とは違った第二の記憶がある。コンピュータと比べると分かりやすい。あるプログラムを走らすとしよう。例えば人名のリストとその人の年齢、身長、所得等のデータが入ったデータベースを作る。このデータベースが通常の記憶だ。これに対してこれらのデータを同処理するのか、例えば平均を取ったり、合計を求めたり、偏差を求めたりするとする。そのために必要になるのは、コマンドとかサブルーチンとかプログラムとかというデータをどう処理するかの手順を決めた命令または命令群である。ディスクリミネータはこの命令に相当する。(正確に言うとディスクリミネータは直接命令するのでなく、命令を誘発する。)その命令を記憶する装置がDIS-ROMであったり、DIS-Rであったり、DIS-RAMであったりするということだ。コンピュータで言えばディスクリミネータはこれらの記憶装置に書き込まれるファイルまたは記憶された命令群に相当する。重要なことはこの命令自身は必ずしも通常の記憶の中に入っていないため自分がなぜそのようなことをしたのか解らないといったことが発生する。
 フロイトはこれを無意識の世界と呼び、DIS-RAMにどのようなディスクリミネータが書き込まれたかを分析することによる神経症治療を創始した。フロイトは無意識の世界と性欲が深い関連があるとしたが、これはディスクリミネータが最終的には種の保存という命題のために作られ、性欲が種の保存にとって極めて重要な位置を占めることに対応している。ただ当然ながら性欲が種の保存のすべてではない。無意識の世界に関しては第二十章で詳しく述べるが、ここでは典型的な例だけを挙げる。

 アンナというヒステリー患者の例である。彼女は催眠状態に陥ると過去の体験をあれこれ話した。彼女は暑くて喉が渇いているのにどうしても水が飲めないという症状があった。彼女はなぜ水が飲めないかを自分では理解できなかった。アンナは催眠状態で、彼女が話し相手として雇っていたイギリス人女性が自分の飼っている子犬にコップで水を飲ませているのを見て嫌悪感を抱いたことを思い出した。その後催眠状態から覚めた後は水が飲めるようになった。

 このように一度ディスクリミネータとしては記録されたが記憶には残っていない場合は、訳がわからないままディスクリミネータの命令にいつまでも従うことになる。実は完全に記憶が消滅していたのでなく、思い出さないようディスクリミネータに命令されていただけである。コンピュータで例えるとそのデータにアクセスしないようなコマンドが入っていたということになる。催眠状態に入るとディスクリミネータによる「思い出してはならぬ」という命令から逃れることができ、それを思い出すことができたわけである。自分がコップで水が飲めない理由が解った後は自分で簡単にディスクリミネータの内容を修正することができるわけで、水が飲めるようになる。この例では子犬にコップで水を飲ませている情景を見てDIS-RAMにコップで水を飲まないようにというディスクリミネータの命令をセットしてしまったし、そんな理由で水を飲まないのは馬鹿馬鹿しいことだと気が付いたとたん、DIS-RAMには再び水が飲めるディスクリミネータをセットしてしまった。このようにDIS-RAMのディスクリミネータは状況に応じ自由にそして瞬時にセット可能なのである。このことが人間その他の高等動物の環境への適応能力を高める結果となっている。

 それでは子犬にコップで水を飲ませているところを目撃したときなぜディスクリミネータは水を飲まないよう命令を出すモードにセットされたのだろうか。種の保存という観点からどのような意味があるのだろうか。それは人類という種を保存しようとするとき、他の種に対する差別の思想が必要になってくることに関係している。我々は人間は他の動物に比べて高等であり崇高であり神秘的なものであると信じて疑わない。この信念こそが人類を守る思想を築く基になっているのである。この思想に従えば人間と動物は差別されなければならず、決して同じ食器を使ってはならないのである。人種差別に関しては様々な議論が交わされているが、動物に対するこのような差別に関してはディスクリミネータが議論を禁じているために誰もそのような差別を撤廃しようなどどいう意見を出す人はいない。これが差別だと思っている人すらいない。このことからもディスクリミネータによる我々の思想の束縛の堅さが理解できる。

黒人が使った食器で食べないと言えば人種差別だと抗議を受けるかもしれないが、犬が使った食器で食べないと言って誰も差別だと抗議しないばかりか当然の事と誰もが思っている。それが衛生的に問題があるというわけではないのだ。

 ディスクリミネータは、その人にどのような行動を取りなさいという命令をたくさん記憶していると意味で命令記憶とも表現することにする。コンピュータではメモリーボードに記憶される。記憶という板と命令記憶(ディスクリミネータ)という板が平行して置かれている状況を想像するとよい。(これはコンピュータに例えているだけで実際に脳の中に板があるのではない。) 強烈な印象を持つ思いで等ははっきり両方のボードに書き込まれている。受験勉強で棒暗記したような事柄は記憶の中だけに書き込まれている。ディスクリミネータだけに書き込まれているものもある。第二十章で詳しく述べるが「無意識」という言葉で表現される事柄もこれに関係している。催眠術を使うとディスクリミネータという命令記憶が書き込まれるがその内容は記憶には書き込まれない。この音楽が始まると踊りだしなさいと暗示をかけておくと、音楽が始まると同時にその人は踊りだす。どうして踊りだしたのか本人はわからない。これがディスクリミネータにのみ書き込まれ記憶に書き込まれなかった例である。実際は記憶にも書き込まれたが、その記憶にはアクセスしてはならないという命令記憶があったために思い出せなかっただけかもしれない。DIS-RAMに書き込まれたディスクリミネータの内容はその時代により分類されている。催眠術であなたは小学生ですと言うとその人は小学生の頃書き込まれたディスクリミネータのみを使って返答しようとする。話し方、考え方、そして記憶内容が小学校の頃書き込まれたものを使い始める。自分の小学生の頃になりきるのだ。これを年齢退行という。

 これで解るように人間には2種類の記憶があるのだ。一応お互いに独立しているが、ペアで同時に記憶され両方とも残っていることも多い。通常の記憶力がある人は命令記憶の記憶力もあるといえるかどうかは調べる価値がある。命令記憶も時間が経てば失われることがある。このあたりは通常の記憶と同じだ。命令記憶には一次(生得的)と二次(後天的)なものがあるが、記憶には二次しかない。例えばヘルマン・ヘッセという作家の名前をある女性が受験勉強で覚えたとする。これは記憶に残るだけで命令記憶には残らない。しかし彼の小説を幾つか読んで彼の考え方に共感し彼が好きになったとする。そうすると命令記憶にもその事が書き込まれそれ以後彼の名前を耳にすると関心を持つようになり、彼の別な小説を読んでみたくなる。そういう行為を誘発するコマンドが書き込まれたのだから。

 今仮にヘルマンという男にその女性が恋をしたが、何らかの事情で別れなければならなくなったとする。彼女は彼の事を忘れようとし、ヘルマンという名前を自分の記憶の中から消そうとする。これは命令記憶(ディスクリミネータ)がそう命令するのだ。その結果彼女の記憶からはヘルマンという名前がすべて消えてしまう。そして「車輪の下」の作者がヘルマン・ヘッセであることすら忘れてしまう。このように命令記憶はそれに関連する記憶を消してしまうこともする。別れたヘルマンという男の記憶とヘルマン・ヘッセの記憶が近くにあったために両方消してしまうのである。なぜこれほどちゃんと覚えていたはずの「車輪の下」の作者が思い出せなかったかを催眠をかけて調べてみると、過去の男性との繋がりが発覚するわけである。実際は本当に記憶が消去されていたのではなく、アクセスできないようなコマンドが入っていただけなのだ。

 一次ディスクリミネータに対しては生まれながらにして記憶との関連があるわけではない。しかし経験を通じ記憶との関連がでてくる。西瓜を食べてみておいしかったとなれば、西瓜を見ただけで快感を感ずるであろう。つまり好き嫌いができる。ということは記憶と命令記憶が関連づけられるということである。好きになった理由はその人の味覚に関係したり、西瓜にまつわる思い出が関連しているかもしれないがもともと関連づけがされてないものがだんだん関連づけがされてくる。味覚のDIS-ROMが中心にあり、これは書き換え不可能であるが、その回りに命令記憶のDIS-Rに食品ごとの記憶と共にに書き加えられていく。2枚の平行に積まれたメモリー基盤に次々書き込まれていくことに例えることができる。若い頃に米を食べていたらずっと米が好きになるし、パンを食べていたらパンが好きになる。その意味でDIS-Rだ。さらにその回りにDIS-RAMに書き加えられることになる。食べ物の好みも変わることがあるという意味でDIS-RAMだ。

 我々は人生において沢山の人々を接触する。名前を顔を覚えることは記憶に書き込むだけであるが、しばらくすると積極的に接触を深めたい人と、できれば避けたい人の区別がついてきて命令記憶と関連がつけられる。この場合の命令記憶には様々な種類がありどの命令記憶に関連づけるかは相手によるのである。これは自分の行動を容易にするための選別である。好き・嫌いで表現できたり、友情と表現できる場合もあれば、愛情として表す場合もある。愛情も母性愛、恋愛、夫婦愛等がある。友情と愛情が混じる場合もある。一旦これらの命令記憶のどれかに特定の相手が関連づけられれば、ある一定の命令群がセットとなって下される。コンピュータでライブラリーとかサブルーチンとかに対応するであろう。つまりどの命令記憶と関連づけられるかによって行動パターンが全く異なるのである。例えば友情が愛情に変わったとすると、非独占的であったものが独占的に変わるし肉体的接触を求めなかったものが求めるようになる。友情であれば、単に様々な行動を共にしよう、協力し合おうというだけであるが、恋愛であれば協力して子孫を残そうというわけであるから、はるかに結び付きが強くなり行動パターンが一変するわけである。このように人間関係を支配するディスクリミネータは沢山の種類があり、それぞれがワンセットの命令群に対応していて、そのセットに周りにいる特定の人々が関連づけられているというわけである。

 言語に関しては書き込みは記憶が中心ではあるが、母国語に関してはかなり命令記憶にも関連づけが進んでいる。誰かが「殺してやる」と言えばびっくりして身構えるだろうが、I’ll kill you.と言われた場合、学校で習っただけの英語では即座にはピンと来ない。記憶と命令記憶との関連づけが強いか弱いかの違いである。美しい詩を日本語で書けるのは日本人の詩人であることがほとんどで、日本語を外国語として学んだ外国人で日本語の詩を書いて有名になった人は聞いたことが無い。母国語だけが特に記憶と命令記憶が強く関連づけられているという別の例だ。外国語を勉強すると、単語が一つ一つ記憶に書き込まれていく。何か外国語で話そうとすれば、ばらばらに記憶された言葉を色んな場所から拾ってきて一つ一つ話すからたどたどしくなるし疲れる。だんだん慣れてくると単語だけでなく文章としても記憶されすらすら喋れるようになるし、好きな言葉、嫌いな言葉等が出てくることにより、記憶と命令記憶との関連づけがなされるようになる。母国語の場合は文法を間違えた文を読ませると不快感を感じ思わず自分で直してしまったりする。外国語の場合は主語、動詞、目的語を考え正しいかどうかを判断するわけで、文を読み上げるだけで快不快は感じないことからも母国語では記憶と命令記憶の関連づけがなされていることがわかる。

 記憶と命令記憶という二枚のメモリーボードの容量はどうであろうか。記憶力は個人差が大きい事はよく知られている。命令記憶の記憶力はどうだろう。味覚で言えば好き嫌いの多い人は命令記憶の容量が大きい人だ。膨大な種類の食べ物の一つ一つに好き嫌いの区別が記憶されている。フルコースのディナーを注文し、その内容を細かく指定する人がいる。またワインの細かい味の違いを識別できる人もいる。これらも命令記憶の容量が多いことからくる。詩人等のように美しい文章が書ける人は、言語に関し記憶と命令記憶との関連づけが強く言語の命令記憶の容量も大きく、特定の文章に敏感に快不快を感じることができる人達だ。

 例えば優れた音楽家は、ピアノ演奏を聞いても一般の人が同じように感じる演奏でも、はっきりと上手下手の区別ができる。これは音(音質、メロディー等)に対して記憶容量が大きな命令記憶を持っているからということができる。

プロの将棋の棋士は何十手先まで読むことができる。コンピュータで同じことをやらせようとすると場合の数が多すぎて時間がかかりすぎる。だからコンピュータはとても人間には勝てない。人間の場合は、どの状況ならどういった手から読んでいくというルールができている。そのルールからはみ出すような手は不快を感じ読みから通常はずされる。つまりプロ棋士はおびただしい数の命令を命令記憶に書き込んでいるのだ。しかしルールから一見はずれる手で、実は素晴らしい好手の場合があって人々をあっと驚かせることもある。王がわざわざ危険地帯に入っていくような手とか飛車や角といった重要な駒を一見無駄にように見える捨て方をする手である。

このように考えると命令記憶の記憶容量は、非常に個人差が大きく特殊な能力を持つ人には特定の命令記憶のみが群を抜いて優れていることが多いこともわかる。必ずしも通常の記憶力優れていれば命令記憶の記憶力も優れているというわけでもない。心身障害者であっても、すぐれた画家であったり作曲家であったりする。命令記憶だけでも優れていれば立派な芸術作品を残すことができるということである。

 記憶には長期記憶(LTM)と短期記憶(STM)がある。同様に命令記憶にも長期記憶と短期記憶がある。長期記憶をDIS-Rに、短期記憶をDIS-RAMに置き換えることができるかどうかは疑問である。なぜなら記憶を単に長期と短期に分類するだけでなく、書き換えの可能性の有無でR、とRAMに分類する必要があるからである。長期記憶も2種類ある。たとえば強盗に侵入され金を出せとナイフを突き付けられて脅されたら一生忘れられない思いでになるからRタイプである。受験時代覚えた漢字とか英単語とかが、記憶違いであったら後で正すことができる。方言でも訓練をすれば直すことができる。こちらは書き換え可能だからRAMである。記憶と命令記憶の顕著な違いは記憶には生得的で書き換えROMに相当する部分が無いことである。STMの忘却の速さが記憶と命令記憶で同じかどうかを検証する実験が待たれる。

 通常の記憶と命令記憶との著しい違いは、それぞれの命令記憶には活性があり状況に応じ機敏に変化するということである。場合によっては特定の命令記憶がフォーカスされてしまい、その命令にすべて従い始めることだ。「死ぬほど好きな人が出来た。」「食料不足で死に直面している。」「自分の子供が誘拐され身の代金を要求されている。」このような場合は1つの事に集中し、他の事には目もくれないであろう。フォーカスされるほどでもなくても、アクティブな命令記憶とそうでのないものがあり、それは状況に応じ変化する。ある事に劣等感を持っているとその事に関連した事を言われると極めて敏感に反応するのに、その劣等感になっていた事が克服されると、同じことを聞いても何とも思わなくなるのが例である。それぞれの命令記憶のそれぞれのアクティビティーがセットされており、それはその人の置かれている環境により時々刻々変化するわけである。

 

次に芸術の意味を考えてみよう。芸術は種の保存とは全く無関係であると考えている人が大部分だろう。しかし人間の行動を支配するディスクリミネータが種の保存と全く関係の無い行動を起こさせることはない。自然淘汰による進化の過程を考えるとディスクリミネータが種の保存にとってあらゆる面で最適化されているのである。そもそも美と快感は非常に関連が深い。目で見て快感を感ずるものを美しいものと定義してよい。つまり美しいものは、求めれば種の保存に好都合なものだ。そして「芸術作品=美しいもの」であるから芸術は種の保存に何らかの関係を持っている。一般にはその関係が思いもよらないものであっても・・・。
 芸術作品の全部を調べるのは不可能であるが、代表的なものを見てみよう。

ミロのヴィーナスはどうであろう。これは裸体の女性であり単に性欲だから種の保存との関係は明らかだ。実際絵画、彫刻に女性の裸体は非常に多いことは、女性が男性を引き付けることが極めて種の保存に重要であることに対応している。ミロのヴィーナスの美に絶対的・普遍的な意味があるだろうか。動物はオスとメスの求愛のサインとしてそれぞれ独特のものをもっていて子孫を残すという意味で極めて重要な働きを持っている。匂い、ジェスチャー、色、形等様々であり、それらは自分の種に属する個体のみに意味があり美しい等の快感を感じ引き付けられる。ミロのヴィーナスの美しさもその一つであり、人間以外の動物が美しいと感ずることはない。そういう意味では普遍性・絶対性はない。人間以外の動物は全く別なものに対し美を感じその動物に対する「芸術作品」に相当するものを作成することも可能であろう。

世界一の美女であっても美しいと感じるのは人間だけであって、人間以外の動物にとっては全く別の感じ方をする。どの動物にとっても引き付けられるのは同じ種のオスかメスなのだからそちらの方が美しいのだ。

 静物画はどうか。果物などは単純に食欲と関係しているので自己保存により種の保存を達成することに関係する。「ひまわり」等の花の絵もその意味は明らかである。もともと花は受粉を目的に動物を引き寄せるためにあり、蜜や果実を提供しようというものである。古典絵画は比較的種の保存で説明が付きやすいものが多いが、写真技術の登場により、現代芸術は意味不明のものが多くなってきた。美術館員が上下を間違えて展示することもある。例えそうであっても多くの人に好かれるのであれば種の保存に何らかの意味をもっているに違いない。正直言って現代芸術の作品の一つ一つの持つ意味をここで解説するつもりは無い。しかしビルの立ち並ぶ現代の人間の居住空間が余りにも人類が住み慣れた古代の生活の場と掛け離れたものになってきたのは間違いない。高層ビルだけでは、何か物足りない。そんなとき芸術作品がそのビルの玄関脇にあるとなんとなくホットする。木を植えて古代の居住環境に少しでも近づけようとしているのは明らかだし、高層ビルの近くの芸術作品も同様の努力の一環と見做すことができるのではと思うのである。

 あらゆる芸術作品は種の保存に何らかのかかわりがあり、それを調べることは逆に一次ディスクリミネータの構造をしらべることになる。客観的に言えることは、人間が摂取してはならない物、例えば排泄物、嘔吐物、そしてトイレ等は芸術にはなり得ないということである。逆にこれらに群がるはえなどはこれらを美しいを感じるのであろう。

 人間のディスクリミネータは種の保存に対して好都合な物に対しプラスになり、それが人の行動を支配する。

子供を見たときは「可愛い」と感じディスクリミネータがプラスになる。このときディスクリミネータは保護し教育し育てるという行動を人に起こさせる。

 女性を見たとき「美しい」と感じディスクリミネータがプラスになる。このときは性交渉を持ちたいとか、保護したいとか、養いたいとかという行動を男性に起こさせる。これは子孫を残したいということである。

食べ物、飲み物を見てディスクリミネータがプラスになったときは、人に飲食を誘発させる。

その他おびただしい種類のディスクリミネータがあり、それが人を種の保存に忠実に行動を誘発している。

 おいしそうな食べ物を目の前にすれば、ディスクリミネータが正になるだけでなく唾液や胃液がでてくる。手を伸ばして食べたくなる。もしそこで何らかの理由で食べることができなければ逆にディスクリミネータが負になってしまう。食べそこなったというのは種の保存にはマイナスであるからである。ミロのヴィーナスを見て性交渉を持ちたいという気分になる人や、静物画を見て食べたいと思う人はいない。

 つまり芸術作品の場合ディスクリミネータは常に正にしかならないよう工夫されているのである。

 おいしそうな果物を前にすればディスクリミネータは正になり、人にそれを食べるという行動を起こさせる。つまりディスクリミネータは種の保存のための行動を起こさせたのであり、その役目を果たしているのである。芸術作品の場合はどうか。ミロのヴィーナスや静物画を見てディスクリミネータは正になるのだがそれでおしまいであって、種の保存には何の関係もない。つまり本来ディスクリミネータは人を種の保存のための行動を起こさせるというはたらきを持っている。一方、人は種の保存ということは全く意識せず単にディスクリミネータをプラスにしたいという一心で行動を続けている。

つまりディスクリミネータを正にするということが目的化している。

 


前章で述べたディスクリミネータの目的化は悪いことと思ってはならない。人は種の保存とは無関係にディスクリミネータをプラスにする方法を沢山発見した。言い換えると「ディスクリミネータを人為的にプラスにする」方法である。これをディスクリミネータの空作動(カラサドウ)と呼ぼう。もちろんこの場合はディスクリミネータの中でもDIS-ROMを正にする方法である。DIS-RやDIS-RAMはディスクリミネータ自身を環境の変化に合わせて変えていくわけであり空作動をさせる必要がないのであるが、DIS-ROMのみは書き換えることができないために、今度は人為的にディスクリミネータを正にするような状況を作り出すわけである。逆に不必要にマイナスになったディスクリミネータのマイナスを人為的に消す場合もある。
ディスクリミネータの作動状態は次の3つに分類できる。

1.正常作動・・・種の保存にとって益になるときがプラス、害になるときがマイナスという本来のディス クリミネーターの目的にかなった作動をするとき

2.空作動 ・・・種の保存には益にも害にもならないが、人為的な方法等によりプラスにするとき

3.作動抑止・・・種の保存にとって害にならないのにマイナスになっている場合そのマイナスを人為的な方法で消すとき

4.異常作動・・・種の保存にとっては害になるのにディスクリミネータがプラスになるとき

 異常作動にも異環境異常作動と真正異常作動の2種類ある。異環境異常作動とは本来ディスクリミネータが作動すべき環境では正常作動であるのに、異なる環境の元では異常作動になってしまうもので、自殺・戦争・犯罪等は異環境異常作動が原因になっている。これに対し真正異常作動はもともとディスクリミネータの機能自身が不十分だとか不完全なために異常作動を起こしてしまう場合である。これは機械でいえば故障・不良品に相当し、このような動作をしない方が種の保存にとって都合がよい。どんな優れた機械でも故障したり、目的に合わない動作をすることはある。これに相当する。この真性異常作動も染色体異常により、生まれつき環境に適応できない状態である場合もあれば、精神病等で正常に動作しなくなった場合や、正常な人でも特別な場合にディスクリミネータが異常作動をする場合とがある。これらに関しては後で詳しく述べる。

 このように書くとディスクリミネータはでたらめな動作をするという印象を持つ人がいるかもしれないがそれは誤りである。ディスクリミネータは人間の行動を種の保存に適したものにするために見事に動作しているのだが、ごくまれに例外があるということである。ジャンボジェットを制御するコンピュータが改良され事故がどんどん減っているのだが、どんなに減っても事故が皆無ということは無く、うまく作動しない場合が必ずあるのに似ている。

 ふぐはおいしい。食べるとディスクリミネータはプラスになるが、その毒で中毒を起こす。これは真正異常作動である。人間の味覚がふぐの毒を検知できないことからくる誤作動であり検知器の性能の限界に相当する。「良薬口に苦し」という諺がある。これも異常作動の例である。苦いというのはディスクリミネータが負になるのだが、種の保存にとっては飲んだ方が良い。我々のディスクリミネータは数千年位の時間ではほとんど変化しない。ディスクリミネータは古代のままだが、現代医学は出現してせいぜい100年とか200年位しか経っていない。また現代医学の出現で自然淘汰されディスクリミネータが変化したということはありえないのだからディスクリミナーターは医学の進歩に合わせて進化をしているわけではない。古代人が現代に住んでいると言ってもよい。そういう意味ではディスクリミネータは環境に完全には対応できない場合がある。そのため歯医者に行きたくないとか手術はいやだとか、異常作動は時々起こる。これに対して麻酔等を利用して異常作動を抑える工夫もなされている。

 人間以外でもディスクリミネータは存在するし異常作動は起きる。「とんで火にいる夏の虫」などはその例だ。もともとは明るい花に向かって飛ぶ虫だが、火を花と錯覚して飛び込んでしまう。

 虫にはディスクリミネータの異常作動を修正する手段は無く次々と死んでいくのだが、人間の場合知性により行動の修正を行う。つまり誰かがふぐの毒で死んだら、なぜ死んだのか、どうすれば安全にふぐを食べられるか等を考え毒入りのふぐは食べないようにする。つまり味覚のディスクリミネータがプラスになったからといってそれだけで食べるという行動に移るのでなく、どうすれば身を守ることができるかを考えるのである。思考は必ずディスクリミネータをプラスにするような方向に進むのである。

 ふぐは美味しいということを知っていると、ふぐを見ただけでディスクリミネータはプラスになるが、毒入りという知識があれば、恐いと思うのでディスクリミネータはマイナスになる。知覚、味覚、嗅覚、触覚、性欲等を支配するものは書き換え不可能なDIS-ROMである。これらは融通がきかず、例えばふぐの毒を防げない。これを補うために沢山の事柄をDIS-RやDIS-RAMである二次ディスクリミネータに書き込んでゆく。一次ディスクリミネータが大まかな行動の方向性を指定しているのに対し、二次ディスクリミネータは環境の様々な変化に対し臨機応変に対応できるよう経験や教育によりどういう場合にはどう対処すべきであるという行動指針を細かく書き込まれたものとなっている。

 ごく大まかに言えば一次ディスクリミネータは脳内部の大脳辺縁系に対応し、二次ディスクリミネータはそれを覆う大脳新皮質に対応する。

 一次と二次のディスクリミネータでどちらのディスクリミネータが優先されるかは人の性格と状況による。

ふぐを見て、毒があることを知りながら自分は大丈夫と言い聞かせて食べてしまう人もいる。強姦等の犯罪の多くは一次ディスクリミネータが二次ディスクリミネータに優先した場合である。これらを含め犯罪に関しては第八章でもっと詳しく説明する。現代社会での模範的人間、知的な人間は二次ディスクリミネータが一次ディスクリミネータに優先する。どんな誘惑にも負けず社会のルールに正確に従って生きる。

 動物でも知能が高いものであれば一次ディスクリミネータと二次ディスクリミネータの対立はある。動物を捕まえる罠を仕掛けたとしよう。餌を置きそれに近づくとその動物を捕まえる仕掛けをしておくと、最初に一匹は捕まえることができるかもしれないが、二匹目はその仕掛けに気づきそれに近づこうとしない。素早くDIS-RAMが書き変わり二次ディスクリミネータが一次ディスクリミネータを押さえ込んだからだ。

人間の場合はDIS-RAMの容量が飛躍的に拡大し二次ディスクリミネータにより一次ディスクリミネータを強力かつきめ細かく制御することができるようになったために環境の変化への適応能力が飛躍的に高まったのだ。

 異常作動でも病的なものもある。精神病患者が何の目的もなく突然人を殺す場合である。これは真正異常作動であり、責任能力が無いとされ無罪となり精神病院に送られる。宇宙から絶えず降り注ぐ宇宙線によりすべての生物はその遺伝子がある確率で破壊されることがある。いわゆる突然変異で親とは異なる形質を持つ子供が生まれる。ほとんどの場合、種の保存に有害な肉体やディスクリミネータを持っているために、種の保存の能力が劣るか失われているかであり自然淘汰の結果新しい種として存続できない。このような場合は真性異常作動を引き起こすディスクリミネータを持っているわけだがそのような種は消えていくわけである。逆に、ずっと生き延びてきている種のディスクリミネータはそのような真性異常作動を起こす確率は非常に少ない。最も少ないものだけが生き残ったと言っていい。突然変異の結果まれにではあるが親よりさらに種の保存能力の高い子が生まれることがあり、その場合は自然淘汰でも生き残っていく。このように宇宙線は人間の多様性を拡大するのに役立つ。これは散弾銃を撃つようなものでほとんどが外れて無駄に終わるが、まれに命中するものがあり、それが種の保存の能力を高めて行く。散弾銃でも命中したものだけ放てばよかったと思うかもしれないが、それは当たるまでわからないのである。それと同じで、役に立たない種であってもそれは結果論であって、多様性のある個体を全部集めたものが、1つの種を構成し全体で種の保存能力が決定されるのである。

 甘い物が好きな人は生まれながらにして、DIS-ROMにその事が書き込まれていて甘い物に対しディスクリミネータがプラスになる。これは正常作動だが、甘い物を摂取しすぎると糖尿病になってしまう。それでもディスクリミネータは甘い物を食べるという行為を誘発することを止めない。しかし甘い物を食べてしまうと血糖値が上がってしまい結果として死期を早めてしまう。その意味で今度は真性異常作動となる。

 正常な人のディスクリミネータは病気の際にはほとんどの場合悪い部分を保護するために的確な指示を出す。痛みはそこを動かしてはいけないとか、危険を回避せよいう命令であり、体がだるいとかだと安静にしてなさいということ、吐き気がするときは体内に有害物資が入ったので外に出せということを意味する。糖尿病の例はディスクリミネータが間違えた指示を出す例である。一次ディスクリミネータは現代医学ほど正確でないので時々間違える。しかし医者から甘い物を食べないようにと止められて二次ディスクリミネータが甘い物を食べるのを制止しようとする。ここで一次ディスクリミネータと二次ディスクリミネータの争いになる。どちらが勝つかは、個人によって異なるということになる。甘い物を食べたいという欲求をがまん出来る人と出来ない人がいるということである。それは二次ディスクリミネータが一次ディスクリミネータを押さえることが出来るほど強いかどうかによるのである。

 どうして糖尿病の際、ディスクリミネータは間違えた判断をしてしまうのであろうか。これには次のような事が考えられる。古代人の平均寿命は30歳、長くても40歳まではいかなかたっただろう。だから糖尿病のような成人病と呼ばれる病気はほとんど無縁だったのであり、糖尿病に強かった人がそれ以外の人より種の保存の能力が高いわけではなかったわけで自然淘汰はされなかった。40歳以上生きても種の保存にとって余り意味があったわけではない。それに食料事情からして甘い物を食べ過ぎて太って運動不足で糖尿病になるというパターンは古代人には稀であったろう。つまり糖尿病に強い人を自然淘汰で選ぶ状況では無かったのである。

 作動抑止は鎮痛剤が典型的な例であろう。不愉快なことがあった場合、憂さ晴らしにスポーツやレジャーを楽しめれば作動抑止になるが、放火等の犯罪に走れば異常作動でしかない。自殺しそうな人やひどく落ち込んだ人を励ますのは作動抑止である。宗教活動にはこういった事がよく行われている。

 異常作動は避けなければならないのだが、空作動や作動抑止は悪くない。芸術は空作動の一つであり同様な例はそれ以外にもたくさんある。それだけ種の保存に余裕がでてきたことの表れである。1993年は日本では主食である米の大凶作の年であった。しかしそれによる餓死者は聞いていない。一時期日本米が手に入りにくくなったことはあったが、米不足は起こらなかったし、ましてや食料不足も起こらなかった。人は40年も生きれば十分に子供を生み育てることができる。実際は80歳前後まで生きることができるようになった。そういう意味でも種の保存は余裕を持って達成されている。人は飢餓に瀕すと食べ物のことばかり考えるようになる。ディスクリミネータが大きな負の値を示すようになり、食料確保の事のみ考えるよう命ずるからである。そのとき食料確保が種の保存にとって最重要課題になるから当然である。一方現代は食料確保は一般の人は考えなくても大丈夫だ。子供を生んで育てることも余裕をもってできる。ここで育てるとは、餓死をさせないように育てるという意味である。実際単に子供を生んで育てるために行わなければならない最低限の労働時間は通常の労働時間の何パーセントであるか考えてみると良い。生活保護でもホームレスでも餓死を免れるには十分である。現代人には最低限の生活をするために行う労働時間以外に膨大な時間が残されてしまったのである。

 種の保存の仕事から解放された人間は、より快適な人生を追求しようとしている。そしてこの「より快適な」という意味は「よりディスクリミネータがプラスになるように」ということである。つまりディスクリミネータをプラスにすることが人生の目的になったのであり、それが種の保存に関係あろうと無かろうとどちらでもよいのである。もちろん種の保存に害になることはディスクリミネータが負になるので決して行うことはできないのであり、害にならない範囲でディスクリミネータをプラスにするのである。

 芸術以外でも身の周りの意外と思われるような所にも同様な例は沢山ある。もしもあなたが外国の宝くじで10億円を当てたとする。あなたは大邸宅を建てるだろう。その大邸宅の中には、よく手入れされた庭には池があり澄んだ水が流れ込んでいて、その中に大きなコイが泳いでいる。

 こんな住居での生活はごくありふれた人のひそかな願望であろう。

どうしてこんな庭が欲しい(ディスクリミネータが正になる)のであろうか。現代の豊かな時代にはその意味が解らなくなっているのだが、人間は太古の時代狩猟生活をしていた。古代人は食料を探して毎日野山を捜し回っていただろう。そのときこのような庭を発見したときの喜びを想像するとよい。澄んだ水は喉の渇きをいやすことができる。大きなコイの発見は食料の発見なのだ。

 しかしこのような解釈にあなたは反論するかもしれない。飲み水は水道水で十分だし、大きな魚も魚屋かスーパーに行けば十分だ。池の水は飲料水ではないし、庭のコイは食べるためではない。あくまで観賞用だと。もちろんあなたは正しい。これは観賞用だ。しかしこれを見てよい気分になる、つまりディスクリミネータが正になるのは、古代人が狩猟生活を送っていたころの名残りでありDIS-ROMに書き込まれていて生得的なのだ。その頃自然選択の原理により種の保存のために設定されたディスクリミネータがそのまま残っていて現代人の生活形態を支配している。すべての人は無意識のうちにこのディスクリミネータに行動を支配されている。無意識と言ったのは、このDIS-ROMに関連ずけられた記憶が無いからだ。つまり記憶にはROMが無く生得的に獲得される記憶は無いからだ。古代の生活は記憶には残っていないが、命令記憶には残っているのだ。

 ディスクリミネータに支配された行動を本能と表現することもある。この表現を使い言い換えれば我々の本能は古代に自然選択により形成されたものであり、思わぬところでこの本能が現れてきた例がこの日本式庭園の例である。数千年前に人類はこのような場所に住みたいという願望をもっていたし、その願望を現代人は無意識のうちに自分の家に実現しているのである。

 パブロフは条件反射の実験を行った。これは記憶と命令記憶の関連づけの実験である。最初、パブロフは手の上にパンをのせてイヌに見せた。イヌはすぐに唾液を出した。しかし、パンをみせて、食べさせずに引込めるということを繰り返すと唾液を出さなくなる。パンを食べて美味しければパンを見ただけでディスクリミネータはプラスになる。しかしパンを引込めているとどうせ食べられないということが記憶されディスクリミネータはプラスにならなくなる。

ベルをならしてから肉を与える事を繰り返すとベルを聞いただけで唾液がでてくる。人間にせよ動物にせよこういったたくさんの経験の積み重ねでディスクリミネータに沢山の事が書き込まれていく。中心にあるのが食欲に関係したDIS-ROMである。ここから「唾液を出せ」、「食べ物を取って食べろ」等の命令がでる。見かけ上はよく似ていてもショーウインドウの中の果物と食卓の皿に盛られた果物とは全然具体的な命令の内容が違う。パブロフのイヌの例にあるような沢山の経験が一つ一つその回りにあるDIS-RAMに書き加えられていく。このようにして多種多様の状況に適応できるようになる。

 ディスクリミネータは様々な行動を誘発する。しかしそれだけでなく、もっと直接的に体に作用する場合もある。おいしそうな食べ物が目の前に置かれれば、ディスクリミネータがプラスになり、食べるという行動を誘発するだけでなく胃液の分泌まで始まってしまう。裸の美女が目の前に現れれば男性の性器が勃起し性交の準備を始める。怒ったときは顔が真っ赤になると同時に胃の中まで真っ赤になる。精神的ショックが原因で身体の一部が麻痺したり、食事が喉を通らなくなったりするヒステリー症状もディスクリミネータのマイナスが強くなり過ぎた場合、直接身体的異常を引き起こしてしまう例である。

 ディスクリミネータが脳のどこにあるかは、難しい問題である。ディスクリミネータとは欲望、感情、快不快等の総称であり、脳の各所に散らばっている。

脳の内部に、記憶や怒り、恐怖などの感情(情動)や性行動に関係する大脳辺縁系(へんえんけい)というものがあり、大脳の内部でまるく輪になっている。この中の扁桃核は怒りや恐怖をつかさどっていて、下等な哺乳類だった頃は大脳の大半をしめていた。このため大脳旧皮質と呼ばれている。ここには一次ディスクリミネータが多く入っている。これら大脳辺縁系は感情をつかさどっているが、前頭葉や側頭葉のまわりを覆う皮質は、あまり勝手に怒ったり、恐れたりしないよう抑制をかけている。このように、大脳の表面を覆うところは、本能をうまく調節するために、人間に進化して著しく発達したので新皮質と呼ばれている。これが人間としての理性を生み出す所であり二次ディスクリミネータがある。

さらに視床下部は体温の調節、飲食の調節を行っているので一次ディスクリミネータがある。

記憶には短期記憶と長期記憶があるが、大脳辺縁系の海馬(かいば)という所を除去したら短期記憶な失われたという報告がある。長期記憶の場所は大脳全体と考えられている。

 脳内には多くの神経細胞があり、そのおのおのが多くの突起を出してお互いに連絡し、情報を交換している。この突起が相手の細胞に接触する部分をシナプスと呼ぶ。記憶の際はこのシナプスのつながりが強まり、忘却の場合はシナプスのつながりが弱まるとされている。

 最も安易にディスクリミネータをプラスにする(快感を感ずる)方法は麻薬や覚醒剤を使うことである。A10神経と呼ばれる「快感」を生み出す神経は中脳がその出発点となり、視床下部-側座核-前頭連合野とつながって行き最後に大脳新皮質に到達する。麻薬や覚醒剤は、最終的にはA10神経に働きかけて快感作用をもたらしている。側頭葉の内部にある内窩皮質(ないかひしつ)と呼ばれる部分は、人間が最高の快感を感じる部分だとされている。アメリカの実験によれば、ここを含む側頭葉を電気刺激された被験者は、例外なく快感を感じ、ひとりの少年は男性の調査官に結婚を申し込んだという。

 快感や覚醒をもたらす神経伝達物質の一つとしてドーパミンがA10神経で分泌され脳内での神経細胞の情報伝達に用いられる。これは覚醒剤アンフェタミンと、うりふたつの化学構造を持っており、脳内で作り出されている麻薬ということで「脳内麻薬物質」と呼ばれている。つまり人が求めている快感はドーパミンによって得られる。それと化学的にそっくりの覚醒剤を使えば快感が簡単に得られてしまう。一見これは最も簡単なディスクリミネータの空作動に見えるのだが、良く知られているようにこのような薬物の乱用の後には強い副作用がある。使用を続けていると耐性といって、だんだん量を増やして行かなければ効かなくなってしまう。また依存症も現れ薬が切れると様々な禁断症状が現れてくる。中毒が進むと幻覚が現れ暴力的になり殺人を犯すこともあれば、中毒で死ぬこともある。これはとても空作動とはいえず、異常作動である。

 


 第一章で述べたように人間のすべての行動が種の保存で説明できるとすれば、なぜ人間は自殺するのだろうか。このことを理解するには「死ぬことは種の保存に益になることもある」ということについて説明しなければならない。
結論から言うと通常の意味での自殺の大部分はディスクリミネータの異環境異常作動の分類に入る。以下でこのことを詳しく説明しよう。

 「人間には自己保存と種族保存の本能がある」という表現は必ずしも正しくない。実際は人間にとって種族保存がすべてであり、人は種族保存にとって有益なら自己保存を尊重するが、益にならないと判断するなら自己保存を放棄し死を選ぶ。これが自殺である。種の保存が自己保存に優先する。このことはすべての動物にとっても同様である。

例えばタコは卵を生むとき自分の足を食って死んでいく。カマキリのメスは交尾の後、オスを食い殺す。ある種のネズミの大群は川を渡るとき、前の方のネズミが川に飛び込んで死に、後続のネズミがその上を渡っていく。老いたライオンは獲物をとることができなくなったら群れから離れひっそり死んでいく。食料確保が簡単でない食物連鎖の食う食われるの世界においては種の保存にとって役に立たなくなった個体はいなくなった方が良い。つまり自殺したほうが種の保存にとって好都合な場合で、種の保存が自己保存に優先した例である。生物にとって自殺とは「種の保存の能力を高める機能」となっている。類似した例は人間社会においても数多くみられる。

 つまり人間の自殺も種の保存にとっての意味は同じである。自殺の原因は必ず「種の保存にとって好ましくない事」が関係しているのである。例えば平成9年の例では

病苦等    37.1%
精神障害、アルコール症等        18.9%
経済生活問題    14.6%
家庭問題     8.6%
勤務問題     5.0%
男女問題     2.6%
学校問題     0.8%
等である。しかし果たしてこれらの理由で死んだほうが生き続けるより人間という種の保存にとって好ましいのだろうか。単純に考えれば必ずしも好ましくないように思える。

 最も多い病苦はライオンの例と類似している。回復の見込がなく種の保存にとって害になるような場合人間は死を選ぶことがある。高齢になると急に自殺が増えるのと関係がある。老衰も病気なのだ。種の保存にとって役に立たなくなった個体は次の世代と交替するような仕組みになっているわけだから、古代においては自殺は合理的であったとも言える。しかし現代ではこのように不治の病を患う人でも問題なく養えるだけの経済的なゆとりがあるのだから、そんなに死を急ぐことはないのにと思うようになったわけである。

 次に多い精神障害、アルコール症等はディスクリミネータの異常作動が多く含まれるだろう。精神障害はディスクリミネータが故障して自殺という異常な命令を出してしまう。アルコール症はアルコールの飲み過ぎが人体に害を与えることを示している。精神障害では躁鬱病患者が鬱状態のとき(あるいは鬱状態から躁状態に向かおうとするとき)自殺することが多い。躁鬱病とはディスクリミネータが故障して理由もなくプラスばかり出したり、マイナスばかり出したりするようになる病気である。プラスが躁状態、マイナスが鬱状態に対応している。マイナスが続くとディスクリミネータはある確率で自殺命令を出すような仕組みになっている。ただし躁鬱病のマイナスは強すぎて、いっぱいにマイナスがでたときは自殺する気力さえ無くなってしまうから、実際に自殺を実行に移すのは鬱状態から脱し始めた頃が多い。

 「生活苦」の場合はいわゆる口減らしである。食料が不足しているときは、自然選択が行われ生存能力のすぐれたもののみ生き残り、それ以外の個体は死んでいく。食料が不足して餓死する場合もあれば、他の個体に食料を残すという意味で自覚した個体は自ら死を選ぶ。

 家庭問題は個々の場合で様々な理由があるであろう。家庭は種の保存のため、生命維持と子孫を残すための活動を行う場であり、それに関係したトラブルが発生した場合は自殺に走る場合がある。

 勤務問題は職場でのトラブルである。現代人が種の保存のための仕事を行う場所が職場である。その場における重大な挫折はその人に自分は種の保存に貢献できないと思わせてしまうから死を選ぶ。

 失恋や心中など男女問題は、種の保存のために子孫を残そうとした試みが失敗に終わり、自分は種の保存のために役に立たないと自覚し、自己保存を放棄した行為である。

 学校問題で自殺することもある。

「いじめ」は他の個体から生命の存続に害になるような行為を受けたとき自ら死を選ぶ場合である。なぜそのような行為を受けるかといえば、まわりの人がその人を種の保存にふさわしくないと判断したからである。

「受験に失敗」は受験者が自分は種の保存に貢献する能力がないと結論されたと判断し死を選ぶ場合である。

 種の保存のためには、次の時代を担う子供達が学校問題でむやみに自殺してもらっては困るのだ。それを裏付けるように、学校問題で自殺する人数は極めて少なく、病苦で自殺する人数の50分の1程度にすぎない。しかし一般の人にはこの数字は信じられないかもしれない。なぜなら病苦で自殺する人の問題がマスコミで話題になることはほとんどなく、逆にいじめ等の学校問題での自殺が大々的に取り上げられることが極めて多いからである。人の命が等しく同じ価値を持つなら学校問題より、病苦で死ぬ人の話題を50倍も取り上げなければならない。実際はいじめによる自殺の方が病苦による自殺より数十倍は大きく取り上げられている。ということは子供たちの命は病苦で苦しむ人の命の数千倍も重要と考えられていることになる。これは種の保存の見地からは合理的だ。どうせ死んで行く人達の命よりこれからの世界を担う子供たちの命の方が遥かに重要だというわけだ。マスコミで取材する人達も、テレビの視聴者もこの点で無意識的に一致したからこのような結果になったのだ。

 もちろん次のような二つの反論があるだろう。

1.自殺をした人は種の保存とか口減らしのためとか思って自殺しているのではない。

その通りである。本人はそのつもりではない。自殺とは本能的なもの(つまり生まれながらにしてDIS-ROMに書き込まれていた)であり、その真の理由など本人が知るわけがない。これは腹痛のとき医者から言われなければ本人がその理由(病名)が解らないのと同様である。本人は腹痛のため回復するまで動かない(動けない)でいる。そして結果としては、動かないでいることが回復するのに役に立つのである。安静に保つことも治療の一つである。なぜ安静にしておくのかと聞いてもその人は腹痛だからというだけで真の理由を本人は知らないで静かにしているのである。医者がレントゲン写真を撮って、あるいは血液検査等をして始めて原因がわかる。自殺だって同じだ。本人はその人を自殺に追いやろうとしている心の奥底に潜むもの(実はディスクリミネータ)がどういう意味を持つものなのか知る訳がない。本人は「ただ人生がいやになったから」と答えるだけである。一定の割合で自殺傾向がある種が、種の保存の能力が高く自然選択されたのでありそれが我々なのである。その種の保存の能力を高めるルールが我々の知らないディスクリミネータの中に書き込まれていただけなのである。

2.どの例をとっても死を選ばなければならないような決定的な理由になっていない。

 例えば「生活苦」から一家心中したとしよう。夫が病気だとか、家業の不振とか様々な理由があるだろう。しかし生活保護とか、親兄弟の援助の可能性等もあり一家が飢死寸前の状態になっていない場合がほとんどだ。長年経営してきた会社が倒産したり、借金地獄で自己破産した場合でも餓死せずに暮らしていけるような社会の仕組みができあがっている。この心中が口減らしの目的で種の保存に貢献するといったことはありえない。

 このような反論に対しては次のように答えることができる。

人間の行動を誘発するのがディスクリミネータである。種の保存にとって不都合なことがあれば、ディスクリミネータがマイナスになる。マイナスがどんどん大きくなりある閾値以上になるとその個体は存在しない方が種全体にとって好都合ということで自殺が誘発されるという仕組みになっている。誘発しているのは一次ディスクリミネータであり、それをコントロールする二次ディスクリミネータが生活保護とか、別の稼ぎ口を探すとかで生活苦をうまく切り抜ける方法を見いだすことができれば自殺をストップさせることができるわけだ。もちろん個体ごとにこの判断の基準には大きなばらつきがある。贅沢な暮らししか知らない人だと、急に収入が減ると安アパートに移るということは考えにも及ばなくて死を選んだしする。この仕組みが現代に適当かどうかは別にして、古代人から引き継いだ我々のディスクリミネータの仕組みがそうなっているのである。その意味で異環境異常作動なのである。

 すでに述べたように自殺する人は、「人生がいやになった」などと言って死んでいく。自殺する人自身、自分がなぜ死のうと思うのかということに気が付いていない。一次ディスクリミネータの本来の意味は本人も知らないのだ。ここで我々は「口減らし」等の一次ディスクリミネータの命令の本来の意味のことを

「ディスクリミネータの判断」

という言葉で表現することにしよう。実際は一次ディスクリミネータは命令を出すだけであるから、「口減らし」等の深い意味を知っている訳はない。しかし進化論を使って説明するならば、口減らしを効率よく行った種が保存され、仲間を平等に扱っていた種はその効率の悪さゆえ滅びた。だから現存する種は口減らしを効率的にできるような一次ディスクリミネータを備えた種である。このような一次ディスクリミネータに従って行った行動を「ディスクリミネータの判断」による行動と呼ぶことにしよう。もちろん通常の人は二次ディスクリミネータが一次ディスクリミネータの誤った判断を正して自殺など行わないのである。

 この表現を使うと本人は「人生がいやになって死んだ」のであるが、実際はディスクリミネータが口減らしの目的で死が適当と判断したので死んだということになる。そしてディスクリミネータの判断がその時代にあったものでなければ異環境異常作動ということになるのである。

 ヒトという種の中には少しずつ違った沢山の種類の個体が存在する。例えば暑さに強いものや寒さに強いもの等である。地球上の環境は絶えず変わり続けている。地球全体の気温が上がれば暑さに強いものが生き残り、気温が下がれば寒さに強いものが生き残る。このような種の中の個体の性質のばらつきが、種の保存の能力を高める働きをしている。暑いときは暑さに弱いが寒さに強い人は、種にとって無駄な存在・能力の落ちる個体に見えるかもしれないが、環境が一転し寒くなってくると、逆に重要な存在になってくるのである。

 同様に利己的な人、つまり自己保存を種属保存より強調する性質を持つ人がいる一方、何事につけ控えめな人、他人のことを常に思っている人のように、種族保存を重視し自己保存を軽視する傾向がある人もいる。物質に恵まれた現代社会においては前者は悪人、後者は善人とされる傾向が強い。しかしヒトという種の保存という観点から考えた場合は両方共それなりの役割は果たしてきたのである。例えば食料が不足し飢餓に瀕したときは、他人の事を思う人、生活苦には自殺するような人は、真っ先に死んでいく一方、利己的で貪欲な、卑劣とも思われる方法さえ駆使して食料を奪い取る人は最後まで生き残るのである。そしてこのような人達が飢餓を耐えて生き残り、ヒトという種を救ったと考えられる。

 実際このような飢餓の状況は、現代の先進国に住んでいる限り滅多に経験しないが現在でも地球上の広い範囲で存在する。かつて北極の観光旅行客を乗せたジェット機が北極に不時着し救助隊を待っていたことがある。強風と寒さのため救助は難航した。機内には食料が無く乗客達は飢餓に瀕した。死の直前一部の乗客達は死んだ他の乗客の肉を食べて生存を続けていたと報じられ世間を驚かせたことがあった。現代のような物質の豊富な世界に住む我々は、飢餓の世界など想像もつかない。人肉を食べることができる人など自分のまわりにいるはずがないと誰も信じて疑わないだろう。しかし現代に生きる我々でも、このように突然飢餓に襲われたとき、我々の日常の生活では考えもつかなかった事をするようになる。つまりこのような状況においても生き残る能力を持っているのである。ここで言う「生き残る」とは全員が生き残るのでなく、人肉を食ってでも生き残るものが一部にいることである。他方、他人思いの人達、生活苦から自殺するような人達は、消えていってしまう。しかしこのような人達は種を保存するために口減らしをするという意味で「種の保存」という目的にかなった行動をしたのである。このことから解るように人間の中のあらゆる意味でのばらつきが人類の種の保存の能力を高めている反面、平時には一部の人間は自殺などの一見無意味に思える行動を取るのである。

 飢餓に襲われると控えめな人間は十分栄養を取らないため急速に痩せ衰える。生きる希望を無くし自殺も多発するだろうが、生き残ろうとする人にとって自殺する人の面倒を見るだけの余力は無い。自殺が多発すれば食料が急激に食べ尽くされるのを防ぎ一部の貪欲で利己的で他人に迷惑がかかることでも平気でできる人を生き残させるのに貢献する。ところが食料が豊富になってくると自殺する人はどんどん減ってくる。それでも様々な性質を持つ種の分布は余りにも広いために、実際は自殺しなくても良いような状況下においても非常に(あるいは異常に)自殺傾向の強い個体が存在しそのような個体は些細な理由で自殺をしてしまう。だから現代における自殺はディスクリミネータの異環境異常作動であり阻止すべきものなのである。このような自殺が全体の個体の数を著しく減少させる程であれば種の保存能力を減少させてしまうが、実際は年間の自殺の全死亡原因の中で自殺の占める割合は3%程度である。飢餓の心配のない社会だからこそ、自殺が社会問題化されるのであり、それだけの余裕ができたという証拠である。

 ディスクリミネータがマイナスになったときの状態は様々である。憂鬱な気分になったり、コンプレックスを感じたり、絶望したり、ストレス、恐怖等を感じたりする。そしてそれがある一定の閾値を越すようになると、一定の確率で自殺を誘発し始める。実際は自殺が実際に行われる場合もあるが、誰かの説得で思い止どまったり、他人に阻止されたり多種多様の進展をたどる。高いビルや崖から飛び降りる場合でも衝動的に行為に至ったり、直前で他人に制止されたりする。現代のように食料に余裕がある時代、先進国にいれば、自殺の意味は理解は到底不可能に思えても、もし我々が食料に余裕の無い太古の時代に戻って生活することができたとすれば、あるいは飢餓に直面している途上国の中でその国の人達と同じ条件で生活すれば、自殺の意味はもっとよく理解できただろう。姨捨山の物語りも口減らしをしなければならないほど、食料が不足していた事情を反映している。働けなくなった老婆を山に運び自殺を助けた物語である。しかしこの物語では最後には老婆を連れ帰る。口減らしが必要な時代から不必要な時代への変遷を描写する内容になっている。時代が変わったのだからもう口減らしで老人を捨てるのはやめようと呼びかけているのである。環境の変化に合わせDIS-RAMを書き換えようと呼びかけるのにこのような物語りは使われている。

 別の歴史の記録を引用しよう。

食糧が欠乏したときには沢山の老人たちは重荷になり、人々は感傷を捨てて老人たちを抹殺した。ビザンチン時代の作家は、ゲルマン民族の一種族であるヘルル人種は老人たちの希望があればその老人を殺したと述べている。ユリウス・カエサール(Julius Caesar)によれば、この習慣はゴール人の中にもあった。フィジー島では40歳に達したときに、その人たちの力が若い者たちにも伝えられるようにと老人を食べさえもした。スエーデンのある地方では「自殺用断崖」とか「殺し棒」とかが利用されていた。食糧が豊富な現代では、これらの経験が忘れられ自殺が本来どのような意味を持っていたかが忘れ去られようとしている。

 もっと太古の時代には、さらに厳しかっただろう。育った植物の数に比例してそれを食う草食動物の数が決まり、さらにその量に比例してそれを食う肉食動物の数が決まるという食物連鎖の中に人間が入っていた。干ばつなどで植物の育ちが悪くなるととたんに、生存できる人間の数も減らさざるを得なかったわけで、そのときには自殺は「種の保存を達成するために必要な最小限の人以外は死を選ばなければならない」ということではっきり意味を持っていたのである。

 人間がディスクリミネータの異環境異常作動により自殺走る原因の一つとして、第三章で述べたが場合によっては特定のディスクリミネータがフォーカスされてしまい、その命令にすべて従い始めることがあることだ。「死ぬほど好きな人が出来た。」「食料不足で死に直面している。」「自分の子供が誘拐され身の代金を要求されている。」などを例に挙げた。蝶々夫人の例、ストーカーもこの分類に入る。近くに天敵がいるような場合等、すべての神経を一点に集中しておいた方がよいわけだから特定のディスクリミネータがフォーカスされることがあるという性質は種の保存の能力を高めるのに役立っているといえる。しかしもしも間違えた方向にディスクリミネータがフォーカスされた場合は、「思い詰めた余り」自殺に走る結果になってしまうのである。

 自殺の定義は何であろうか。生存を続けようと思えばできるのにもかかわらず死を選ぶ場合を自殺と定義してみよう。これを広義の自殺と呼ぶことにしよう。広義の自殺はどこにでもある。例えば老衰で老人が死んだ。もし本当にその老人が一秒でも長く生存するしようとするのであれば、死の間際に生命維持装置を付け人工的に心肺機能を維持し続ければ植物状態で2、3日は長く生きられただろう。そんなことを希望する老人は聞いたことが無い。生命維持装置を希望しないことは広義の自殺だろう。そんなことをしてまで生きていてもしょうがないと誰もが思うだろう。多くの人は種の保存という観点から最良の死期を自ら選んでいるのであって、いたずらに延命のみに専心しているわけではない。自分が食べることにより、他人を餓死させるといったことが考えにくい現代の先進国では、働けなくなったから死を選ぶことが非常に少なくなっているわけだが、飢餓に直面している環境では子供を餓死させるよりは、働けなくなった自分が死んだ方がましと考える人が増える。

 舞台生活をしていた人が癌に犯され手術をしなければ死ぬと宣告される。手術すれば生き続けられるが体に障害が残り舞台には復帰できない。このようなとき死の直前まで舞台に立ちたいということで手術を拒否する人の話をよく聞く。これも広義の自殺だ。手術すれば生きられるのに手術が嫌いだから手術を受けないのも広義の自殺だろう。無意味に死期を引き伸ばすのでなく最小限の治療で死まで生活を送らせるホスピスに入ることも広義の自殺だ。

 タイタニック号の場合は沈没するまでかなりの時間があった。救命ボートには乗客の半分も乗れないことが解っていた。救命ボートに乗れなければ極寒の海に投げ出され確実な死が待っていることは誰の目にも明らかであった。もし乗客の全員が自分が生きることのみを考えて救命ボートに乗ろうとしたのであれば、力の強い男たちだけが救命ボートに乗ったであろう。実際は女、子供が優先されしかも乗客を落ち着かせるためその船専属の楽隊は最後まで演奏を続けたという。つまりこの状況で多くの男たちや楽隊の人達は広義の自殺をしたのである。これらの人々は異常な人達でなくどこにでもいるごく一般の人々であったはずである。もし貴方がこの状況に置かれたとき、女・子供を押しのけても救命ボートに乗っただろうか。

 男性たちの自殺行為は種の保存の観点からは容易に理解できる。女・子供が生き残れば次の世代に希望を繋ぐことができるからである。

 「母を尋ねて3000里」という物語りがある。消息の途絶えた母を子供が遠方から遥々訪ねて行く。苦労の末、母に出会った時母は死の床にあった。医者から手術を受けるように言われていたがその気力も残っていなかった。しかし子供が突然訪ねてきて気持ちが変わった。「手術を受けよう。自分にはこの子がいるのだ。」つまり子供に会う前は、自分はもう種の保存には貢献出来ないからこのまま死んでもよいと判断していた。つまり広義の自殺をしようとしたのである。しかし子供が目の前に現れると、自分は種の保存のためにもっとやらなければならない仕事が残っていたこと、種の保存に貢献できることに気づき、手術を受けることを決心した。

 危険を伴うスポーツやショーに挑戦し失敗し死ぬことも、広義の自殺だ。本人は成功させようと思っていたとしても、挑戦しなければ確実に死を避けられたのだから確率的に死期を早めたのは間違いない。成功したとしても種の保存には関係ない。しかしこれらの行為により多くの人を喜ばせる(ディスクリミネータを空作動で正にする)ための行為になっている。我々のディスクリミネータは他人のディスクリミネータを正にすれば自分のディスクリミネータも正になるような仕組みになっている。これこそ種の保存の基本だろう。種全体に対し何らかの貢献をすることが、我々に与えられた義務なのだから。何台も並んだ車の上をオートバイで飛び越えたりビルの間に繋がれた一本のロープの上を歩いて渡ったりする危険な行為でなぜディスクリミネータはプラスになるのだろうか。それは人間が行うことが不可能を思われてた事に挑戦し可能であることが判明した場合、種の保存によい結果をもたらすことがあることであるからである。古代人にとっての天敵であるライオン等に勝てる方法を発見するとかは危険に挑戦して失敗を重ねながらも何度も挑戦したであろう。ライオンとの戦いが勝率が低く自殺行為に近いものであっても種を守るためには必要としていたわけである。あるいは危険を承知で新しい土地に移り住むことが必要なこともあっただろう。我々のディスクリミネータの命令の中には、「危険を承知で新しい事へのに挑戦」というものがある。現代人には天敵はいなくなったわけだがディスクリミネータに命ぜられ何かに挑戦をしたいという冒険心は健在なのである。

 仲間と山登りをしている途中遭難する。仲間を見捨てれば自分は助かるかもしれないという場合でも、仲間を置いて去ることが出来ず二人とも死んでしまうといった遭難事故はよくある。また溺れる人を助けようとして自分も溺れ死ぬ人も後を絶たない。溺れている人を見ると自分も泳げないのに水に飛び込んでしまう。ディスクリミネータは自己保存より種の保存を優先したという例でありこれも広義の自殺である。

 最近尊厳死ということが話題になることがある。回復の見込みがない患者が死を希望した場合、死ぬのを助けるのかということである。逆に言えば回復の見込みがなくなると人は、やたらに延命を望むのではないということである。これは死の時期を自分で決めるということのみならず、まわりの人がそれを助けるてやるべきかどうかということが議論されているのである。

 これらの例からしても人間はただ単に長く生きようと望んでいる訳でなく、自分にとっての最良の死期を自分の意志で選んでいることがわかる。すべての個体が限りなく長く生きることが種の保存にとって最良のことではない。なぜなら「種の保存」という意味は個体が長く生きることによって保存されるというのではなく、世代交替を繰り返しながら保存されるという意味であるからである。つまり子を生み育てた後は、老化現象を起こして死んで行く仕組みになっているのである。死期をどこにするかは各自が決めるのだが、それには大きなばらつきがあり(ばらつきはいつも種の保存の能力を高めるのに役立っている)その中で異常に(又は不必要に思えるほど)早く死を選んだ人々のみが自殺として扱われているにすぎない。

 「自分が種の保存にもはや必要無いと感じたとき人は自殺を選ぶ事がある」という説明が正しいことは、年齢層別の自殺率(10万人当たりの自殺者数)の変化を見ればわかる。年を取るにつれ急激に自殺率が高まる。平成9年の統計によると、19才以下では自殺率は1.7人に過ぎないのに、60才以上では31.9となっており実に20倍近くにもなっている。子育ても終わり、取り立てて種の保存のためにできる仕事が無くなったら、自殺の確率が激増していることに注目すべきである。これこそディスクリミネータの判断なのである。

 ただしたとえディスクリミネータがそのような判断をしたとしても、我々はすべての人々に快適に生きてもらいたいと思っているのである。つまり老人を含むどんな人でもディスクリミネータがいつもマイナスになって死にたいと言い出すのを防ぎたいと思っている。これが第五章で述べた作動制止である。それが許されるゆとりの時代になったからそういう考えが支配しているのである。

 現代において自殺とか尊厳死とかが問題化されるのは、第九章で述べるディスクリミネータ解放と密接に関係がある。

 

 


すべての人が種の保存のために生きているのであれば、なぜ人は戦争をするのであろうか。戦争とは種を絶滅しようとする悪人たちが起こす悪業ではないかと思う人がいるだろう。今から30億年以上も前に原始生物が出現して以来、自然選択が繰り返され生物が進化し人類が誕生したと考えられる。人は集団を作り生活するのであるが、ある時間が経過するとやがて集団ごとに微妙に形質が異なるようになる。そして環境に適していない種は滅びるのであるが、時にはある集団が他の集団を滅ぼしてしまい、戦いに勝った集団のみ生き残る。このような自然選択の結果、より戦いに強いものが生き残ったのである。結果としてみれば、この戦いに勝ったのは筋肉の強いものでなく、知能が高いものであった。つまり人間は戦争を繰り返すことにより、どんどん知能を高めていき最終的には、現在の人間へと進化していったのである。
 この頃の戦争は現代のものよりはるかに規模の小さなものであった。1994年マスコミを賑わしたルワンダ内戦はツチ族フツ族の戦いであり、大規模な虐殺が行われ、死者は3カ月で80万人にも達したが一方が他方を完全に滅亡したわけではなかった。古代にはこの戦いの規模をずっと小さくしたような戦いが繰り返し行われていたと思われる。

 戦争がヒトという種の改良に役立ったという仮説に対し次のように反論があるだろう。

戦場では最も勇敢な兵士が犠牲になっていく。優秀な個体が失われるのではなかろうか。また戦争で敗れた側でも生き残りがいて全員が死ぬわけでない。

 しかしこれは現代の戦争だろう。自然選択が行われた頃の戦争は小規模の集団の間の戦争であったろうし、食料を得ることが容易でなかった頃戦争での敗北は、即全滅を意味しただろう。確かに勇敢な兵士は犠牲になっただろうが、ずる賢い兵士は生き残っただろう。つまり知能の高いものは生き残った可能性が高い。

 このように戦争が人の知能を高めたという可能性は否定できない。その結果、人は自分達の生存にとって都合の良い生物(食料となる生物等)を増やし、天敵となるような生物を殺すか、自分の周りから追い払うことまで可能になり、飛躍的に種の保存能力を高めた。

 そういう意味では結果として戦争はヒトという種の保存にとって有益にであったのかもしれない。そして現代人においてもその戦争ディスクリミネータはDIS-ROMとして残っている。戦争の映画がいかに多いかを見ても人間がいかに戦争好きかがうかがえる。しかし現代においては戦争は相手を全滅させないのであるから、その種の保存の能力を高める機能は完全に失ってしまっているのである。それどころか全面戦争ともなれば人類を全滅させる可能性があるほどの威力ある兵器をもつようになった。このような現代においては人間の心の奥底に潜む戦争願望は危険極まりないものとなったのである。前章の言葉を使えば戦争はディスクリミネータの異環境異常作動により引き起こされる。「本来戦争の目的が人の知能を高め種の保存の能力を向上させることであった。」という仮説が正しいと認めればもはや戦争は必要ないと結論が出るのは明らかだ。これからの戦争は人類を破滅に導く核戦争か、種の改良に関係のない小規模の限定戦争かのどちらかだからである。限定戦争といえども他の国まで巻き込み核戦争にまで発展する可能性がある。従って現代における戦争はその規模に拘わらず種の保存にとって危険極まりない存在である。

 戦争を防ぐのは二次ディスクリミネータ、つまり戦争を二度と行わないように教育をすることである。

また核拡散を防ぐ事も重要である。独裁者やテロリストが核を手にしたら何をするか分からない。化学兵器生物兵器も同様だ。その意味で人類は危機にさらされている。天敵がいなくなった現代は、人類にとって戦争の阻止が種の保存の最も大きな課題の一つになってきた。

 

 

人がすべて人間という種の保存のために行動しているなら、犯罪はこの世から無くなっても良いはずだと思うかもしれない。現実には殺人事件等の凶悪事件が世の中にあふれている。一見矛盾しているようだが深く調べてみれば犯罪が起こる理由がわかる。結論から言うと一つの種が様々な環境を耐え抜くにはその種に多様性が無ければならないということ、そしてその多様性が一部に現代という環境にうまく適応できない個体を生じさせ、そのディスクリミネータの異環境異常作動によって犯罪は引き起こされるということである。この事情は自殺の場合と類似している。
 人はディスクリミネータに支配されて行動している。そしてこのディスクリミネータは種の保存に好都合なように最適化してあるのだが、種を構成するすべての個体がその時に与えられた環境に最も適しているように最適化されているとは限らないのだ。人類を取り巻く環境は常に大きく変化し続けている。人間という種がどの環境にも耐え得るにはその時の環境に最適な個体だけでなく、その時はあまりうまく適応できないが将来環境が変化したときに適応できるよな個体も種の中に含まれていなければならない。その時代に最もうまく適応できるような個体は、あるときは尊敬され、あるときは大富豪となり、あるときは模範とされ快適な生活をおくる。その反面別の環境では快適に適応でき重要な役割を果たすのだが、その時代にはうまく適応できないような個体は、あるときは犯罪者として追われ、あるときは貧困に苦しみ、あるときは軽蔑され惨めな生活を余儀なくされる。

 例えば強盗殺人を犯す人を考えてみよう。他人を殺してでも盗みたいと思う人である。自分さえよければ他人はどうなってもよい。自己保存が極めて強調されているディスクリミネータを持った人である。このような人の中には普通の人は耐えられないような劣悪な環境でも耐え抜くだけのタフな肉体を持つことも多い。第二章で述べたように食糧危機に襲われ、全員を生存させるだけの食料が無くなった場合は、このような個体が他の個体を抹殺し、種として全体の数を減らして生き延び、将来食糧が十分供給されるようになるのを待つのである。昆虫の世界なら共食いはざらにある。人間の世界、特に現代はそこまでやる人は少ない。食料に困らないなら人肉など誰も食わない。その代わり強盗殺人が稀に起きるのだ。食糧が十分な現代ではこのような人は邪魔物扱いされる。非常事態ではないのだから自由に強盗殺人をされては困るのだ。

 殺人はディスクリミネータの異環境異常作動により引き起こされる場合がほとんどだが希に真性異常作動により引き起こされる場合もある。1997年、神戸の14歳の中学生が次々と殺人事件を起こししかも首を切り取って校門の上に置き世間を驚かせた。これは真性異常作動の例である。

 生物には種の保存の能力を高めるため必ずばらつきがある。そのばらつきの中心にはその環境に適した個体がいることが多い。そしてばらつきの端には少数であるが真性異常作動や異環境異常作動を起こすディスクリミネータを持ったものがいて環境に適応できないでいる。

 マスコミで派手に騒がれてしまうので、世の中殺人事件だらけと錯覚してしまうかもしれないが、日本で年間殺人被害者は僅か755人(1995年)にすぎない。人口割合では僅か0.0006%であり自殺する人の30分の1にすぎないのであり、種の保存の能力を低める役割を果たしているとは言えない。むしろ大多数は一次ディスクリミネータの異常作動を二次ディスクリミネータが見事に押さえ込んでいると言うべきである。もちろん押さえ込んで何の事件も起こさなかったら事件として報道されないから、新聞を見ると世の中悪い事件だらけと錯覚してしまうだけなのである。

 「犯罪者はなんだってやる」と思っている人がいるかもしれない。前にも述べたが「家畜を人間の食料にする」ことは通常行われていることだが、その逆に「人肉を家畜の餌にする」という犯罪は聞いたことがない。犯罪にはルールがあり、通常は種の保存の見地からそれぞれ意味を持っている。異環境異常作動では、それからはずれる犯罪者はいない。一次ディスクリミネータの異常作動を抑え込むのは知性であり学習でありこれが二次ディスクリミネータである。そのために次のような工夫がなされている。

1.徹底した教育により、殺人等のあらゆる犯罪を行わないようDIS-RAMに書き込めばよい。

2.犯罪を犯した場合、投獄する。これは身体を拘束し苦痛を与えることによりDIS-RAMに犯罪を犯してはならない事を書き込もうとしているわけである。

 人間は生まれながらにして、沢山のディスクリミネータが書き込まれたDIS-ROMを持っている。これは太古の時代から引き継がれた単純なもので、コンピュータまで入ってきた現代の高度な社会にとても適応できるものではない。従ってきめ細かく現代社会のルールに従って行動できるように、DIS-RやDIS-RAMに現代にあった様々なディスクリミネータを書き込むことになる。これが教育であり、罪に対する罰も教育的な意味もあるわけである。

 このような工夫により殺人等の犯罪は減少するのではあるが、種はより厳しい環境変化にも耐え得るようにと、種の中に広いばらつきを持たせているために、これらの工夫でも押さえ切れない人達も現代に生きなければならない。そのため犯罪は後を絶たない。これが犯罪の起こる主な理由である。DIS-RやDIS-RAMによる制御が十分でなく、一次ディスクリミネータを押さえ切れないわけである。

 うっぷんを晴らすという意味を考えてみよう。これが物理学のエネルギーに例えられ、心にたまったエネルギーの発散であるという説明がある。ここではこのような説明よりは、ディスクリミネータによる説明(第五章で作動制止と表現した)の方が自然であることを指摘したい。 ある放火魔は「自分でも楽しく遊べた日には放火しませんでした。パチンコに負けたり、飲んでおもしろくなかったときに、うっぷんを晴らし、スリルを味わうために火をつけたのです。」と述べている。彼にはストレスがたまる理由があった。職場の仲間とうまくいかなかったし、結婚三カ月後に離婚している。「ストレスがたまる」とはディスクリミネータがマイナスになった状態が続くということである。職場の仲間とうまくいかなかったこともディスクリミネータのマイナスを大きくした。一般にディスクリミネータが継続的にマイナスになったときの行動に関しては個人的なばらつきがある(性格の違いと説明する)。種の保存に不適と判断したのだからそれへの対策はどのようなものであろうか。第五章で定義した「ディスクリミネータの判断」という言葉で説明する。

○自殺する。種の保存に自分が不必要とディスクリミネータが判断した行動である。

○落ち込んで何もしない。又は何をやる気力も起こらない。種の保存に害になる行動を取るより何もしない方がましとディスクリミネータが判断した場合である。

○ディスクリミネータをプラスに変える努力をする。これが第五章で述べた作動制止である。この場合ディスクリミネータの正常作動か空作動でプラスに変えることができる人もいるが異常作動でしかプラスにできない人がいる。

これはその人の能力に大きくかかわっている。新しい結婚相手を捜し再婚したり、職場の仲間を仲直りしてプラスに変えれば正常作動である。パチンコ等でプラスにできれば空作動であり実際この放火魔はパチンコで勝てたら放火はしなかったと述べている。異常作動でプラスにする場合は犯罪である。ここでは放火する結果になった。

 ディスクリミネータは報復という命令を出すことがある。殴られたら殴り返す。物を取られたら取り返す。被害を受けた時点でディスクリミネータはマイナスとなり報復した時点でプラスに転じる。特定の相手に報復できなかった場合、報復の相手が不特定多数つまり社会への報復となってしまうことがある。ディスクリミネータの異常作動といえる。家庭がうまくいかなかった、職場の仲間とうまくいかない。しかし誰に報復をすれば問題が解決するといった状況でもなくなってきた。そのため報復の相手が社会全体になってしまった。そこで不特定多数に放火という手段で報復をしたのである。

 この説明で解るようにこのような場合、一定量のエネルギーが別のものに転化するといった単純なものでなく、エネルギーの発散といった説明では不十分であり、ディスクリミネータがどのように作動するかを見極めながら、きめ細かく説明を行うべきである。

 

 


単に視覚・嗅覚・触覚・性欲等に直結した一次ディスクリミネータのプラス・マイナスのみに頼る行動は、単純で原始的で、とてもどんな状況でも最適であるとは言えない。その例として一次ディスクリミネータの異常作動の例を挙げた。そして知性の発達による二次ディスクリミネータによる調整が人間の種の保存の能力を著しく高めた。
 知性による行動では善悪により、どのように行動すべきかを判断し決定している。それでは善悪とは何であろう。結論から述べる。

1.種の保存に好都合な事は善、不都合な事は悪である。

2.環境の変化によって、種の保存のために人間が行わなければならない行動は常に変化する。だから善悪の基準も常に変化を続ける。どの時代でも善悪の基準は、その時代で種の保存にとって好都合か不都合かで決められる。

3.現代の先進国のように物質があふれ、種の保存が余裕をもって達成される時代には、人間の行う事のできる行動に幅ができる。このようなときは種の保存に害にならない限りディスクリミネータをプラスにすることが目的化する。これをディスクリミネータの空作動と呼んだ。種の保存には全く関係なくても、種の保存に害を及ぼさない限りディスクリミネータがプラスなら善、マイナスなら悪となる。またディスクリミネータのマイナスを消しても(作動抑止)やはり善ということである。

 それぞれについて説明してみよう。

1.例えば車で誰かにケガをさせたとすると、これは悪でありディスクリミネータは負になる。ケガをさせた人はケガの程度にもよるが絶望的な気分にさえなることもある。一方これを見た通行人はケガをした人を救おうとするだろう。医学に少しでも知識があれば応急処置をするだろうし、救急車も呼ぶだろう。その人は人助けをしたのだから良いことをしたのでディスクリミネータは正となる。逆に見て見ぬふりをしてその場を通り過ぎたら悪である。その人は後で「あのとき助けてやればよかった」と後悔しディスクリミネータは負になる。ディスクリミネータに従って行動すればいつの間にか種の保存に従って行動したことになるという例だ。これが1.種の保存に好都合なことは善、不都合なことは悪という例だ。このように種の保存に直接的に関係している場合は、環境の変化によって変化するわけでもなく、善悪の判断の基準は単に人命救助であるので極めて明確である。

2.一方環境の変化で善悪の基準が変化する場合もある。その時代に適応するには、その時代にあった行動をとることが要求される。このような場合生まれながらの一次ディスクリミネータだけで行動を判断するのは無理であり、学習(教育)により、書き換え可能な二次ディスクリミネータに様々な項目を追加し、一次ディスクリミネータに従うだけでは適当でないような行動を制御することになる。

 例えば性に関して言えば国によっても時代によっても大きく変わる。旧民法には家督相続をいう制度があった。その家の財産を次ぐべき子が法的に定められていた。物資の供給に限りがあるときは、個人よりも物が優先されていた。子供が生まれたときそれが誰の子かということが極めて重要な意味を持っていた。女性が一人で子供を育てながら生きて行くのは非常に難しい時代だった。このような時代に性解放など思いもよらないことであったろう。

 それに比べ現代は物があり余っている時代であり、女性一人でも問題なく生活できるようになった。新民法では家督制度は廃止され個人中心の社会となった。その社会の変化に伴い性に対する考え方も開放的になってきた。ヘアヌードは禁止されていたのに、いつの間にか町にヘアヌード写真集が氾濫するようになった。

 性の開放の背景には、避妊法や堕胎手術の進歩があり、万一子供ができてもなんとか育てられるとい余裕がでてきたこととも深く関連している。性に関しては一次ディスクリミネータのプラスにするために、好き放題な事をかなりの程度までやることができるようになり二次ディスクリミネータによる制御がそれほど重要で無くなっているわけである。

 一次ディスクリミネータは、生得的であり、一生の間変化しないが、二次ディスクリミネータは社会情勢等の変化で臨機応変に変わって行く。このため人間はより高い環境への適応能力を示すようになった。太平洋戦争でアメリカに敗れて以来日本女性は、アメリカ人の特徴である背が高く鼻が高く足が長い男性を憧れるようになったという。これもディスクリミネータの変化であろう。この事を第二章で定義した言葉で説明しよう。戦前戦後を通じ記憶の中にはアメリカ人の特徴は存在し変化はしていない。ところが命令記憶との関連づけは大きく変化した。戦前はアメリカは敵であり、日本より劣り卑下すべき人種であったのだからアメリカは「嫌い、悪い」に関連づけられていた。ところがアメリカが日本に勝った戦後には、アメリカ人は英雄であり優秀な人種であるから「好き、格好いい」に関連づけられるようになったのである。このように記憶と命令記憶との関連づけは時代の変化に応じどんどん変化していく。それに応じ善悪の基準も変わっていくのである。

3.ディスクリミネータをプラスにすることが目的化してしまうような場合(空作動)についてはすでに述べた。人間は種の保存に関係なくディスクリミネータをプラスにしてしまう数々の方法を発見した。これは人間が種の保存のため以外に多くの時間を割けるようになった事と対応していて、これからの時代重要性をどんどん増してくる。生きるために必要な食物の生産等は機械がやってくれるので人間はそれ以外で何をやるかを考えなければならないのである。そしてそれが人間の生きる目的に関連してくる。このことは後にもっと詳しく触れることにしよう。

なんの役に立つかわからないがいい気分にしてくれるものは、たいていが第五章で述べたディスクリミネータの空作動である。

 飲酒はディスクリミネータの空作動に近いが、カロリーのある食料と考えれば正常作動である。しかし飲み過ぎて肝臓の調子が悪くなれば異常作動となる。飲み過ぎない限り異常作動の確率が低いので「適量の飲酒は良い」と判断されている。

 喫煙は気分は良くなるが肺ガンの原因になるので空作動というより異常作動と言った方がよい。

 麻薬は耐性と依存性があり、幻覚等強い禁断症状を起こすようになるので異常作動だ。しかしモルヒネ等はディスクリミネータの強いマイナスを除くので末期ガンの患者に与えて、苦しみを和らげて穏やかな死を迎えさせることができる。作動制止だ。

 体のどこかの異常のため、生命の維持が困難となる状態ではディスクリミネータはマイナスになる。第五章では人の死について述べた。種の保存の意味は一人の人が永遠に生き続けるのでなく世代交替をしながら種としては保存されるのである。そういう意味では一定の年齢になると死ぬことが前提となっている。人間に限らずどの種でも共通に言えることだ。子孫を残すという義務を果たしたらその後は死ぬことになっている。そういう意味で死ぬことは種の保存にとってよいことだ。それならばこの苦しみはディスクリミネータの異常作動とも言える。一次ディスクリミネータにはその個体が生き続ける必要があるのかどうかの判断をする機能はない。単に生命が危険に曝されたとき一様に苦しみを与えてしまう。その異常作動を押さえる麻薬はその使用を良いこととして認められるわけだ。これがディスクリミネータの作動制止だ。末期ガンであれば、将来起こるかもしれない中毒症状は気にしなくても良いのだ。

 麻薬は無害であれば極めて有効なディスクリミネータの空作動の方法であっただろう。しかし使用後極めて強い中毒症状を起こすので異常作動であり、厳しく使用が禁止されている。健康な人が使うものは全く害があってはならない。重病人が作動制止の目的で使うのなら少しくらい副作用があっても許される。

 この章では善悪が決定されるしくみを述べた。実際は人様々であり善悪の基準もバラバラだから、ここに述べた事以上に複雑である。そこに多くの人が納得できる範囲内で善悪の基準を作ったものが道徳とか倫理とかいったものである。しかしながら誰が作ってもこの基準を作る人の主観がどうしても入ってしまう。しかも時代の変化に的確に対応できるとは限らない。我々はすべてが種の保存ということに帰着させて、善悪の定義を明確に行った。この定義に基づき、我々は何をすれば良いか、どのような法律を作るべきか、新しい道徳とはどうあるべきか等を考えれば良いのである。

 

 

 

 これまで述べてきたように、我々の社会はディスクリミネータがプラスになるように、マイナスを避けるようなものにどんどん変わって行くのは明らかだ。このように、ディスクリミネータがプラスになりやすくマイナスになりにくくすることを「ディスクリミネータの解放」と呼ぼう。
 誰も現代の社会がどのような方向に変化しているか気が付いていないし、これからどのような方向に変化するのかということも解っていない。この問題に対する解答がまさにディスクリミネータの解放ということなのだ。物があふれゆとりが出て来て平均寿命が伸びた現代においては、社会はディスクリミネータを解放する方向に進化する。

その例を挙げる。

[プラスにする]

社会福祉が充実する。

労働時間が短縮され娯楽に使う時間が増える。

強制された労働でなく自分に適した楽しむ労働をするようになる。

レジャー施設が充実する。

旅行に行くことが多くなる。

趣味が多様化し各自自分に合った楽しみ方をする。

性の解放が進む。

風俗産業等の性欲を利用したレジャーが盛んになる。

[マイナスを防ぐ]

医学の発達により病気や手術の痛みを和らげ、苦しまなくても済むようになる。

公害問題も徐々に改善されつつある。

戦後制定された労働三法は、労働者の権利を拡大し労働者の苦しみを和らげる働きをする。

戦後制定された憲法基本的人権を認め、個人の苦しみを和らげる働きをしている。

 民主主義とは国民すべての人のディスクリミネータが大きくマイナスになるのを防ぐ制度だと言っても良い。個人の権利の保護ということは、まさにこの目的のために行われているのである。

 セクハラ訴訟というのがある。昔はあまり聞かなかった。職場で女性が男性に体を触られる。好きな男性であれば快感だが、そうでない場合は不快だ。昔はこういった場合のディスクリミネータのマイナスを問題にしなかった。特に男性上位の社会だったので女性の不快は無視されがちだった。現代は少しでもディスクリミネータのマイナスを見つけると男女に拘わらず改善を試みる。そこで裁判ということになり、裁判官からけしからんとお叱りを受ける。

 昔であっても、ある一定のセクハラで男性は快を感じ、女性は不快を感じていたところであろうが我慢していて裁判にはならなかった。ディスクリミネータ解放ということは、このようにプラスとマイナスがあるときは、まずマイナスを消すことが優先される。

 もちろんディスクリミネータの解放を阻もうとする動きは常に存在する。古い価値観、道徳観等ゼネレーションギャップは常に存在する。いつも一本道でディスクリミネータの解放が進むのではなく、一進一退を繰り返しながら徐々に進んで行く。どうして社会がこのような方向に進むのかと道徳の乱れを嘆く人もいる。昔は良かったと愚痴をこぼす人もいる。結果として進化した社会を調べてみればディスクリミネータの解放ということになっているということである。

 しかしながらもしも社会を動かしている人々が、社会がディスクリミネータの解放の方向に進化しているということに気が付けば様々な決定を行うときに、より正しい選択が出来るのである。逆に全くどちらに進んでいるのか分からないまま社会を動かした場合は、方向が定まらないまま船を操縦しているようなもので、暗礁に乗り上げたり暴風雨の中に入ったりで危険極まりないのである。

 例えば尊厳死の問題を語るときである。これを認めることはディスクリミネータの解放であろうか。

この問題に関しては次のように考えれば良い。

(1)種の保存にとってプラスかマイナスか?

   答えはどちらでも無いということだろう。現代は老人に食料をやらなかったとしても別の人が救われるという時代ではない。購入した食料のかなりの部分を無駄にして捨てているのが現状なのだから。

(2)ディスクリミネータをプラスにできるか。

   回復の見込みが無い末期ガンのような場合で本人が強く死にたいを希望しているような場合、本人のディスクリミネータをプラスにすることはできる。このような場合は通常、本人は様々な苦痛を感じているはずである。病気の苦しみ、自分のやりたいことが出来ない苦痛、他人に様々な迷惑をかけてしまうことの苦痛等から、ディスクリミネータは強いマイナスとなってしまう。尊厳死はこの強いマイナスを消すという意味で作動抑止でありディスクリミネータの解放である。

 それでは問題点は無いのだろうか。ある人が財産目的等で尊厳死を装って病人を死亡させたらどうだろう。もちろんそのような可能性は常に存在する。それを防ぐには尊厳死を認める前に第三者による厳しい審査が必要になるであろうし技術的には尊厳死を装った殺人の可能性を限りなく小さくすることはできる。

 以上の考察より、尊厳死を認めることはディスクリミネータの解放につながると結論される。

 それでは臓器移植と脳死の問題はどうか。脳死を人の死と認め脳死段階で臓器を取り出し移植するというものだ。問題は脳死は人の死なのかということだ。

(1)種の保存にとってプラスか?

   もちろんプラスだろう。放置すればどうせ臓器提供者も提供される者も死ぬ運命にある。それが少なくとも片方は生きのびさせる可能性が出てくるのだから。

(2)ディスクリミネータはプラスになるのか。

   もちろんプラスになる場合のみ認めるわけだからプラスになる。つまり臓器提供者の本人の同意を予め得ておくというのが前提である。

 しかしながら医学が発達し脳死状態の人を蘇生させる技術が開発されたらこの議論は成り立たなくなる。この議論は現在の医学では脳死を人の死と認めて良いと言っているにすぎない。

 種の保存だけに注目するのであれば、死刑囚や治る見込のない病人を殺して臓器を取り出し治療に役立てたらどうかと思うかもしれない。しかし本当にそうしなければ人類は滅んでしまうという危機的状況においてはその可能性もでてくるであろう。しかし明らかに現代はそういう状態ではない。現実問題としてはこの治療を行っても行わなくても人類の存亡にはかかわるとは思えない。そういう場合はディスクリミネータの強いマイナスを防ぐ方が優先されるのである。本人の同意の有無に拘わらず、生きている人の臓器を取り出して死に至らしめることに対して多くの人のディスクリミネータは強いマイナスを示す。移植をする医師も、臓器を取り出される人の家族、親戚、知人等の悲しみは計り知れない。このようにディスクリミネータの強いプラスと強いマイナスが存在する場合はディスクリミネータの解放では無いのである。いかなる場合でも強いディスクリミネータのマイナスは避けようというのがディスクリミネータの解放の意味である。これは人権という問題と深くかかわってくる。奴隷解放、人種差別撤廃、身分制度廃止等はすべて強いディスクリミネータのマイナスを避けるという意味でのディスクリミネータ解放の流れを表しているのである。

 同様な事が人体実験についても言える。単に医学の発展のためであれば、死刑囚に人体実験を行えば、医学は進歩し結果として沢山の人を救える。しかしこれに対し多くの人のディスクリミネータは強いマイナスを示すし、そのような事を強行することはディスクリミネータの解放の精神に反すから行わないのである。

 代理母の問題はどうであろうか。子供のいない夫婦は子供が欲しいと思う。種の保存にとって当然である。養子よりは自分の子供と考えるのも当然である。自分達と形質が似通った子孫を残したいという気持ちを各人が持っていたからこそ、優秀な個体の子孫が優先され、種の保存の能力を高めていったのだから。他人の子宮を借りて自分たちの子供を生んでもらうことができるのなら、それはディスクリミネータ解放の精神に合っている。もちろん代理母を務めた女性のディスクリミネータをうまくコントロールできればという条件があるが。

 上で述べてきた事柄に関し、恐らく沢山の人は倫理上の問題があると主張するだろう。倫理・道徳は、善悪を決める判断の基準になっていた。しかしここで主張したいことはこれらの判断の基準が時代に合わなくなったということであり、新しい基準を作る基礎となるものがディスクリミネータ解放の精神である。従って従来の倫理・道徳を離れ、時代に合った倫理・道徳とはどういうものであるかを考えて行こうというのである。

 

 


これまで述べてきたように、我々の社会はディスクリミネータがプラスになるように、マイナスを避けるようなものにどんどん変わって行くのは明らかだ。このように、ディスクリミネータがプラスになりやすくマイナスになりにくくすることを「ディスクリミネータの解放」と呼ぼう。
 誰も現代の社会がどのような方向に変化しているか気が付いていないし、これからどのような方向に変化するのかということも解っていない。この問題に対する解答がまさにディスクリミネータの解放ということなのだ。物があふれゆとりが出て来て平均寿命が伸びた現代においては、社会はディスクリミネータを解放する方向に進化する。

その例を挙げる。

[プラスにする]

社会福祉が充実する。

労働時間が短縮され娯楽に使う時間が増える。

強制された労働でなく自分に適した楽しむ労働をするようになる。

レジャー施設が充実する。

旅行に行くことが多くなる。

趣味が多様化し各自自分に合った楽しみ方をする。

性の解放が進む。

風俗産業等の性欲を利用したレジャーが盛んになる。

[マイナスを防ぐ]

医学の発達により病気や手術の痛みを和らげ、苦しまなくても済むようになる。

公害問題も徐々に改善されつつある。

戦後制定された労働三法は、労働者の権利を拡大し労働者の苦しみを和らげる働きをする。

戦後制定された憲法基本的人権を認め、個人の苦しみを和らげる働きをしている。

 民主主義とは国民すべての人のディスクリミネータが大きくマイナスになるのを防ぐ制度だと言っても良い。個人の権利の保護ということは、まさにこの目的のために行われているのである。

 セクハラ訴訟というのがある。昔はあまり聞かなかった。職場で女性が男性に体を触られる。好きな男性であれば快感だが、そうでない場合は不快だ。昔はこういった場合のディスクリミネータのマイナスを問題にしなかった。特に男性上位の社会だったので女性の不快は無視されがちだった。現代は少しでもディスクリミネータのマイナスを見つけると男女に拘わらず改善を試みる。そこで裁判ということになり、裁判官からけしからんとお叱りを受ける。

 昔であっても、ある一定のセクハラで男性は快を感じ、女性は不快を感じていたところであろうが我慢していて裁判にはならなかった。ディスクリミネータ解放ということは、このようにプラスとマイナスがあるときは、まずマイナスを消すことが優先される。

 もちろんディスクリミネータの解放を阻もうとする動きは常に存在する。古い価値観、道徳観等ゼネレーションギャップは常に存在する。いつも一本道でディスクリミネータの解放が進むのではなく、一進一退を繰り返しながら徐々に進んで行く。どうして社会がこのような方向に進むのかと道徳の乱れを嘆く人もいる。昔は良かったと愚痴をこぼす人もいる。結果として進化した社会を調べてみればディスクリミネータの解放ということになっているということである。

 しかしながらもしも社会を動かしている人々が、社会がディスクリミネータの解放の方向に進化しているということに気が付けば様々な決定を行うときに、より正しい選択が出来るのである。逆に全くどちらに進んでいるのか分からないまま社会を動かした場合は、方向が定まらないまま船を操縦しているようなもので、暗礁に乗り上げたり暴風雨の中に入ったりで危険極まりないのである。

 例えば尊厳死の問題を語るときである。これを認めることはディスクリミネータの解放であろうか。

この問題に関しては次のように考えれば良い。

(1)種の保存にとってプラスかマイナスか?

   答えはどちらでも無いということだろう。現代は老人に食料をやらなかったとしても別の人が救われるという時代ではない。購入した食料のかなりの部分を無駄にして捨てているのが現状なのだから。

(2)ディスクリミネータをプラスにできるか。

   回復の見込みが無い末期ガンのような場合で本人が強く死にたいを希望しているような場合、本人のディスクリミネータをプラスにすることはできる。このような場合は通常、本人は様々な苦痛を感じているはずである。病気の苦しみ、自分のやりたいことが出来ない苦痛、他人に様々な迷惑をかけてしまうことの苦痛等から、ディスクリミネータは強いマイナスとなってしまう。尊厳死はこの強いマイナスを消すという意味で作動抑止でありディスクリミネータの解放である。

 それでは問題点は無いのだろうか。ある人が財産目的等で尊厳死を装って病人を死亡させたらどうだろう。もちろんそのような可能性は常に存在する。それを防ぐには尊厳死を認める前に第三者による厳しい審査が必要になるであろうし技術的には尊厳死を装った殺人の可能性を限りなく小さくすることはできる。

 以上の考察より、尊厳死を認めることはディスクリミネータの解放につながると結論される。

 それでは臓器移植と脳死の問題はどうか。脳死を人の死と認め脳死段階で臓器を取り出し移植するというものだ。問題は脳死は人の死なのかということだ。

(1)種の保存にとってプラスか?

   もちろんプラスだろう。放置すればどうせ臓器提供者も提供される者も死ぬ運命にある。それが少なくとも片方は生きのびさせる可能性が出てくるのだから。

(2)ディスクリミネータはプラスになるのか。

   もちろんプラスになる場合のみ認めるわけだからプラスになる。つまり臓器提供者の本人の同意を予め得ておくというのが前提である。

 しかしながら医学が発達し脳死状態の人を蘇生させる技術が開発されたらこの議論は成り立たなくなる。この議論は現在の医学では脳死を人の死と認めて良いと言っているにすぎない。

 種の保存だけに注目するのであれば、死刑囚や治る見込のない病人を殺して臓器を取り出し治療に役立てたらどうかと思うかもしれない。しかし本当にそうしなければ人類は滅んでしまうという危機的状況においてはその可能性もでてくるであろう。しかし明らかに現代はそういう状態ではない。現実問題としてはこの治療を行っても行わなくても人類の存亡にはかかわるとは思えない。そういう場合はディスクリミネータの強いマイナスを防ぐ方が優先されるのである。本人の同意の有無に拘わらず、生きている人の臓器を取り出して死に至らしめることに対して多くの人のディスクリミネータは強いマイナスを示す。移植をする医師も、臓器を取り出される人の家族、親戚、知人等の悲しみは計り知れない。このようにディスクリミネータの強いプラスと強いマイナスが存在する場合はディスクリミネータの解放では無いのである。いかなる場合でも強いディスクリミネータのマイナスは避けようというのがディスクリミネータの解放の意味である。これは人権という問題と深くかかわってくる。奴隷解放、人種差別撤廃、身分制度廃止等はすべて強いディスクリミネータのマイナスを避けるという意味でのディスクリミネータ解放の流れを表しているのである。

 同様な事が人体実験についても言える。単に医学の発展のためであれば、死刑囚に人体実験を行えば、医学は進歩し結果として沢山の人を救える。しかしこれに対し多くの人のディスクリミネータは強いマイナスを示すし、そのような事を強行することはディスクリミネータの解放の精神に反すから行わないのである。

 代理母の問題はどうであろうか。子供のいない夫婦は子供が欲しいと思う。種の保存にとって当然である。養子よりは自分の子供と考えるのも当然である。自分達と形質が似通った子孫を残したいという気持ちを各人が持っていたからこそ、優秀な個体の子孫が優先され、種の保存の能力を高めていったのだから。他人の子宮を借りて自分たちの子供を生んでもらうことができるのなら、それはディスクリミネータ解放の精神に合っている。もちろん代理母を務めた女性のディスクリミネータをうまくコントロールできればという条件があるが。

 上で述べてきた事柄に関し、恐らく沢山の人は倫理上の問題があると主張するだろう。倫理・道徳は、善悪を決める判断の基準になっていた。しかしここで主張したいことはこれらの判断の基準が時代に合わなくなったということであり、新しい基準を作る基礎となるものがディスクリミネータ解放の精神である。従って従来の倫理・道徳を離れ、時代に合った倫理・道徳とはどういうものであるかを考えて行こうというのである。

 

 

種の保存と宗教とはどのように関係しているのだろうか。我々は人間のすべての行動が何らかの形で種の保存と関係していると主張しているのだから、もちろん宗教も同様である。宗教に関しては次章で述べることにし、この章では人間を神聖化する思想の意味について述べる。
 人間は宗教により人間の存在を絶対化し、「他の種は殺して良いのに人間という種のみは守らなければならない」ということに対し理論武装をしているのである。人間は考える動物である。しかしすべての事柄を自由に考えられるわけではない。全く自由なら人類を滅ぼす計画を立てることも自由であるからである。実際はディスクリミネータにより我々の思考は厳しく制限されている。ディスクリミネータがマイナスになるような考えを持つことは許されない。逆にディスクリミネータが正になるような考えはどんどん湧きでてくる。ディスクリミネータによって我々の思考ががんじがらめに縛られている証拠である。その結果は人間を絶対化し神聖化する思想の出現である。

 「人間の行動のすべては種の保存という観点から説明できる」といえば猛反対する人でも「人間以外の動物(例えば猿)の行動はすべて種の保存という観点から説明できる」というとそんなに猛反対しないだろうし、あっさり賛成する人も多いだろう。

 かつての人間を神聖化し絶対化するかつての思想によれば「人間は神様により造られた崇高な生物である。人間の住む地球は世界の中心であり、月や太陽がその回りを回っている。」一方科学は実験観察を基にするために、人間のディスクリミネータとは一線を画す。その結果ディスクリミネータによって歪められた人間の思想と衝突することとなった。人間の住む地球が世界の中心という思想に対しガリレオ・ガリレイは地球が太陽の回りを回っていると反論したために厳しい批判をあびた。ガリレオの考えを聞いた周りの人のディスクリミネータは一斉にマイナスになったのである。「人間は絶対的な生物でない」という思想は「他の生物を殺しても良いが人間のみ守らなければならない」という根拠を無くすると本能的に感じた。これがディスクリミネータの判断である。つまり理論武装が解除されると危ぶんだわけだ。しかし宇宙に飛び出すことができる現代では地動説を受け入れざるをえなくなった。

 同様な理由でダーウィンの進化論も厳しい批判をあびた。人類がサルから進化したとすれば人間を絶対化する理由は何か。ダーウィンを囲む人のディスクリミネータはマイナスになったに違いない。ダーウィンを批判する人は「あなたの親戚はサルだとおっしゃられる。それは母方のほうで。それとも父方のほうで。」とダーウィンに言ったという。しかし進化論を支持する沢山の証拠があり、人は進化論も受け入れざるをえなくなった。

 結論から言うと人間はディスクリミネータが極めて強くマイナス値を示すような事柄に関しては、思考にストップがかけられ人間の神聖化の思想へと流れ去れて行ってしまうのである。「神の怒りに触れる」ような事は何人も考えてはならぬというわけである。地動説や進化論は人間を神聖化する目的にそぐわないということであった。ディスクリミネータは「人間という種の保存はなぜ必要なのか」というような疑いを持つことを強く禁止していた。もちろんそれはディスクリミネータが作られた目的であるのだからその禁止はもっともなのである。その反面、人間の神聖化とそれに関連した思想のおかげでそれに関係した科学の発達は阻害されたのは間違いない。しかしながら科学は種の保存を確実にするためには多大の貢献をしている。医学の発展のおかげで平均寿命も大きく伸びた。食料等も豊富になった。このように科学の発達した今日でも「人間の神聖化」というベールは人間の行動を科学的に分析しようというあらゆる試みを阻害している。そしてディスクリミネータにより歪められた人間の思想の多くが倫理学、哲学等に強く反映されている。

 ディスクリミネータに支配されたおかげで、人間を神聖化し絶対化している例を挙げてみよう。例えば人は他の生物とはどこが違うかとか人間の神秘性とかの話をするのが好きだ。宗教や芸術は人間が他の生物とは全く違う証拠として使われる。そして人間の行動は神秘的なものと思っている。そしてこれに逆らう者は人間ではないという考えが支配的だ。だからここで述べたような芸術や宗教に対する説明で多くの人が不快感を感じたことと思う。この不快感こそがまさにここで主張しているディスクリミネータのマイナスであり、ディスクリミネータをマイナスにするような仮説は到底信じることができないと感じる人が多いのである。

 科学が種の保存にプラスということは明らかであるから、人間の神聖化という制約は少なくとも科学を論ずるときだけは外しても良いのではなかろうか。そして我々人類がこれから何をすればよいのかを判断するのにもっと客観的に考えてもよいのではないだろうか。人間の住む世界が宇宙の中心でないという思想も、人間が神様によって造られたものでなく単にサルから進化した一種族にすぎないという思想も、そして宗教や芸術等が種の保存に関係した行動の一つにすぎないという思想も、我々は人類という種を守ることで一致していれば許容できる思想ではないだろうか。

 

 


すでに前章にて宗教は人間を絶対化し、人間という種のみを守るということに対する理論武装をするのに一役買ったことを述べた。これ以外にも宗教は様々な意味を持っている。例えばある人が病気にかかってなかなか治らなかったとする。ディスクリミネータはマイナスになり、その人はどうやって治すかということばかり考えるようになる。現代医学で簡単に治る病気なら問題にならないが、そうでないときは藁をもすがる気持ちで宗教にすがるようになる。病は気からということもあり、宗教家にこうすれば治ると言われると一種の暗示にかかる。それでも治らない人もいるが、一定の確率で治ることもある。そういったことが入信のきっかけになる。いったんそうなると、その次からその宗教家の言いなりになってしまう。一種の催眠状態である。信者は自分のDIS-RAMにディスクリミネータを自由に書き込むことを許す。
 これは自分ではどうして良いか解らなくなるタイプの人であり、自分の代わりに決断してくれる人(ここでは宗教)を求めたわけである。自分で考えて行動するのでなく、他人の言うことに従う傾向は多かれ少なかれ誰にでもある。これが人間社会の秩序を維持するのに重要な役割を果たしている。「銀行にお金を預けて良いのか」「お金に価値を認めるのが正しいのか」「道路交通法に従わねばならぬのか」「レストランで食事をしても安全か」等いちいち考えていたら生活などできない。我々は非常に多くの事を他人に言われるまま無条件に受け入れる。そして考えることはごく限られた範囲に絞る。考えて行動する範囲は結構広い人もいれば非常に狭い人もいて、個人差が大きい。宗教を信じる人は自分で考え決断する範囲が狭い人で他人に判断をまかせたい人だ。ある場合自分で他人を論破するだけの自信が無いので仕方なく神様の力を借りて持論を押し通そうとする場合もある。「神様のお告げです」と言ってしまえば誰も反論できないので自分の意見を押し付けるのに最適である。 自分の娘が、結婚したいといって男を連れてきた。しかしその男が気に入らない。しかし理由をあげて娘を説得する自信が無い。彼は「神様のお告げがありました。その男と結婚してはなりません。彼は40歳で死ぬそうです。」これなら反論の余地はない。神様のお告げを連発すれば、普通ならとても通らない主張でも受け入れられる可能性が出てくるし、やり方によってはとてつもない大金をお布施として収めさせることができる。

 カルトという宗教は集団自殺をしたり、集団で殺人に加担したりすることもある。カルトの場合信者はほとんど教祖のロボット同然で、教祖じ自殺指向があれば集団自殺をするし、大量殺人指向があれば集団で大量殺人に加担したりする。カルトは自分で考えず誰かに従いたいという指向の強い人達の集まりである。

 人が集団生活をするとき各自ばらばらならば、集団もまとまって行動することができなくなる。そのような時、ある指導者がいてその指導者に他のメンバーが従ってくれるなら大きな仕事をすることができる。戦争のときは特に重要であり、種の保存でも一定の役割を果たすといえる。こういった人間の性質を利用してできたのが宗教といえる。

 結婚式や葬式のように種の保存にとっての大事件の際のルールとして宗教が利用されることも多い。

結婚に関して言えば、一度カップルを組んだら簡単に離れては困るわけである。ここで神様が登場し、別れてはいけません。二人で仲良く子供を育てなさいと命令する。それは誰が言うより神様が言った方が効果があると感じる。

 誰かが死んだ場合、一応家族、親戚、知人はその死者の前で悲しんで見せねばならぬことになっている。本心は早く死んで欲しかったと思っていた人もいるだろうがそれは社会のルールだ。誰かが死んだときなぜ人は悲しむのだろうか。死は種の保存にとって好ましくないことであるのだからディスクリミネータはマイナスになる。しかし死を悲しまないときもある。寝たきりの親の長年にわたる看病に疲れていた場合、表情には表さないが内心ほっとするだろう。入り乱れての戦いの続く戦場で敵の兵士を殺しても悲しむことはない。悲しみとはディスクリミネータのマイナスであり、種の保存にとってマイナスが大きいほど悲しみは大きくなる。種の保存にとっての最大のマイナスは親が子供を失うことであり、なんといっても悲しみは最大になる。老いた親や祖父母の死の場合は悲しみはずっと少ない。逆に家に老人がいるために思うように仕事が出来なかったりする場合や、財産相続を早くして自由に親の財産を使いたいと思っている場合等、ディスクリミネータはプラスとマイナスが入り乱れる。可愛い子供が死んだ場合とは全く異なる。しかしながら誰かが死んだ場合悲しむ者と喜ぶ者がいてはならないのである。どんな場合でも、人の死を喜ぶ者がいてはならない。万一それを容認すれば、殺人を容認することに匹敵しぶっそうな世の中になってしまう。そこで宗教が登場する。誰かが死んだ場合、有無を言わせずその死を弔わせる。その儀式が葬式であり神による儀式が最適なのである。そしてこれは殺人を防ぐ人間の知恵なのである。

 


性欲は種の保存にとって非常に重要であるが故にそのディスクリミネータも極めて強い。人間は多様性に富み、様々な種類の快感は個体によってばらつきが多い。その中でも性欲は非常に強いものであり、例えば男性の99%までが女性性器を見て興奮する。男女を問わずほとんどすべての人間が強い性欲をもつと言ってよい。これは一次ディスクリミネータである。それにもかかわらず所かまわず性行為が行われているわけではない。二次ディスクリミネータがこの強大な性欲を抑えているのだ。
 抑えなければならない理由は「子供ができた場合育てられるというはっきりとした見通しが立たない限り子供は作ってはならない」という考えがあるからだ。人間の子供が未熟のまま生まれ、しかも教育に時間がかかるということも両親が不明確な子供を避けようとする原因となっている。ただしこれはDIS-RAMにそのように書き込まれただけであり時代や場所が変わればガラリと変わる。実際アフリカの中には乱交が行われている地域もあり、エイズの拡散を止めようがないという。

 食料が十分でなく家で食べるものを賄うのがやっとという封建制度の時代、妻が家を出て生活するのはとても無理という状況では二次ディスクリミネータによる押さえ込みの力は極めて大きかったが、女性一人でもなんとか子供を養える今日、二次ディスクリミネータの押さえ込む力は比べ物にならないほど小さくなり、それが性解放へと向かって行くのである。もちろんこれはディスクリミネータの解放の一つである。その流れが解らない一部の人々は性道徳の乱れを嘆き元の性道徳を取り戻そうと無駄な努力をする。老人の口から決まってでてくるのが「近ごろの若者は」で始まる嘆きの言葉だ。老人たちの若かった頃と現在では食料事情がはるかに改善し二次ディスクリミネータがそれほど押さえ込まなくても良くなったことが背景にあることなど及びもつかないだろう。

 老人達は若いときに教え込まれた性道徳が絶対的に正しいと思っている。その時代に正しくても現代は事情が違っているということまで考えつかない。ましてやどの程度の食料事情にはどの種類の性道徳が適当だなどとは教えられているのではない。彼らが教えられた性道徳はただ一つでありそれがどの時代でも適用すると信じて疑わない。若者はまた別の性道徳を持つ。若者から見れば老人達の考えは「古い」のであり、老人から見れば若者の性は乱れているのである。現代のように急激に社会が変化をしつつある時代は道徳も、善悪の基準も大きく変わる。老人達には退廃的と思われるかもしれないが、結婚する前に妊娠しようが、同棲しようが、婚前旅行だろうが、若者にとって抵抗は無くなってしまう。離婚もどんどん増え続ける。昔のように我慢してまで同じ相手と同居することは無いのだ。昔なら離婚されると行く場所が無かったが現代は離婚しても女性は一人で暮らせる。

 今後を言うなら性の解放は果てしなく続くのは明らかだ。食うに困るということはあり得ない社会になってくるのである。生産性は向上を続け機械が大量生産をするために、人はあくせくしなくとも生活できるようになる。どのような形で子供が生まれようともちゃんと育てられる環境が整ってくる。本当に結婚してお互いを束縛する必要があるかを疑い始めるようになってくる。

 大きな流れとして二次ディスクリミネータによる抑制がだんだん緩やかになってきて一次ディスクリミネータによる行動の誘発をできるだけ自然に受け入れようということだ。ディスクリミネータ解放に添ったこの流れだが、性に関して20~30年前から比べてもこの傾向は明らかだ。性行為を意味するエッチという言葉を若い女性ですらためらう事なく使うようになった。婚前交渉が当たり前になり初夜という言葉が余り意味をなさなくなった。ディスクリミネータをプラスにする手段として性欲をより積極的に利用するようになった。もちろん空作動が多いのだが・・・。性を自由奔放に楽しもうとする人達と、それを制限しようとする人達の対立は永遠に続くのだが前者がじわじわ勢いをつけ後者は後退を続ける。

 性欲ディスクリミネータにはもう一つ大きな特徴がある。そもそも男と女がいて、何らかの方法で出会い結婚し子供をつくるという仕組みは、人間という種の中の個体にばらつきを持たせるという重要な役割を持っているのである。様々な人間がいたからこそ環境の変化にも適応でき生き延びることができたのである。もし近親結婚ばかりであったら多様性が失われてしまったであろう。多様性の追求の目的から性欲ディスクリミネータは単に特定の異性に対し反応するのでなく、常に新しい世界の中にいる異性に強く反応する傾向もある。一方ほとんどの国では財産の相続の問題を円満に解決するために一夫一婦制がとられている。しかし性欲という一次ディスクリミネータは一人の異性にのみ向かうのではない。そこで一度結婚すると配偶者以外の異性に対し二次ディスクリミネータにより性欲は押さえつけるられる。

 しかしながら特定の配偶者を持つ場合でも、さらに他の異性と関係を持とうとする場合がある。それは個体のなかのばらつきに関係するものである。気が合う相手を探すということではあるが、種の保存という見地からは多様性の拡大という意味を持っている。

 近年各国で離婚が増大している。見知らぬ者同士が結婚生活を始める。生まれ育った環境がまるで違う二人である。成長の過程で様々なディスクリミネータがDIS-Rに書き込まれる。これは一度書かれると書き換えが不可能なのである。二人のDIS-Rに書き込まれた内容が余りに違い過ぎると、共同生活を行ううちにディスクリミネータが強くマイナスになることがある。昔はそれでも我慢して結婚生活を維持していた。妻は離婚しても帰るところが無かったのである。現代はゆとりの時代で、離婚しても何とかなるようになった。それなら強いディスクリミネータのマイナスを解消するために離婚すればよいということになった。これはディスクリミネータの作動抑止であり、ディスクリミネータ解放の流れの一つなのである。

 男性と女性でセックスに対する態度が大きく異なる。面識のない美女にセックスを求められた場合、それに応じる男性は多い。しかし面識のない美男子にセックスを求められた場合に、それに応じる女性は少ない。もちろんこれはセックスの後、女性には妊娠の危険があるためだ。その結果性欲抑制の二次ディスクリミネータは男性より女性の方がはるかに強いものになっている。例えば性欲ディスクリミネータの空作動を利用した娯楽である、風俗産業、ポルノ等は男性用として広まっている。実際は女性も楽しみたいと思っているが、下手に性を楽しもうとすると性行為を求めていると勘違いされ回りの男性を刺激してしまう。それをうまく逃れたのがテレクラ等の商法だ。電話回線を通じてのセックスなら妊娠の恐れはない。

 一方妊娠の危険を顧みず、多数の男性と性交渉を持つ女性がいる。性欲抑制のディスクリミネータや性病への警戒のディスクリミネータ等が弱い女性たちである。妊娠しても中絶すればよいという考えが性欲抑制ディスクリミネータを弱くする。このような女性達の目的を知る手段として次のデータを参考にしよう。1997年に「補導・保護した女子の性の逸脱行為の動機別状況」を平成十年警察白書から引用する。

 補導された女子の総数は9402人でこの動機としては 遊ぶ金が欲しくて…47.0% 興味(好奇心)から…27.7% 特定の男性が好きで…10% セックスが好きで…3.6% その他…11.7%

これを見ると金目的と性欲ディスクリミネータの空作動目的とがほぼ半数づつということがわかる。こういった数字はディスクリミネータの大きさを調べるのに役立つ。

 このように多数の男性とセックスができる女性達でも剥げのオヤジとはセックスしたくないという人が多い。その理由は剥げていれば、すでに老化しているのだから一緒に子供を育てていけないとディスクリミネータが判断(第五章参照)するからだ。もちろん女性達はセックスをする男性達と一緒に子供を育てようなどとは全く考えていないというだろう。これは第五章で述べたようにその女性達の判断ではなく、ディスクリミネータの判断なのだ。

 多数の女性と関係を持つ男性達が相手として選ぶ女性の条件はもっと厳しい。女性が許せる相手の男性の年齢は35歳までとか40歳までとかである。何歳でも気にしない人もいる。しかし男性がセックス相手として選ぶ女性の年齢ははるかに低い。20歳前半までとか、中には法律に抵触して中学・高校生と関係し逮捕されることすらある。これもディスクリミネータの判断である。古代においては、女性にとってセックスの相手が余り高齢であると妊娠できない事が多いし、子供が育つまで世話をしてもらえないと困るわけだが、そんなに若くなくても良かった。男性がセックスの相手とする女性は若くて健康でなければ子供が育てられないのは明らかだ。出産・育児は重労働なのだから。このような事情から男性の性欲ディスクリミネータは若い健康な女性を求めほ、女性の性欲ディスクリミネータはそれほど若い男性に固執しないことになっている。ディスクリミネータの判断にはこのような事情があるのである。もちろんセックス相手を求める本人達は全くその事情は理解していない。

 


人間の行動を直接取り仕切っているのがディスクリミネータであるが、間接的に取り仕切っているものにお金がある。貨幣制度はディスクリミネータの仕組みをうまく利用している。
財サービスの価値はディスクリミネータをどれだけプラスの方向へ動かすことができるかによって決まる。

ただし価格は市場原理や生産性等も加味されて決定される。

 食べ物であれば、それは正常作動でありディスクリミネータをプラスにするのは明らかである。激痛を伴う病を持つ人であれば、その痛みが和らげる薬があれば作動抑制でディスクリミネータが大きなマイナスから小さなマイナスに変わるから、プラスの方向に動かしたことになりその薬が価値を持つ。種の保存に密接な役割を持てば持つほど価値は高くなる。例えば癌やエイズの特効薬ができれば、そしてそれが単に市場原理で値段がつけられれば途方もない値段がつくだろう。生きた人の肝臓などの臓器を売買できる国がある。その値段は極めて高い。正常作動でディスクリミネータをプラスにしなくとも、空作動でプラスにする場合も同様に価値を持つ。例えば種の保存に密接にかかわる性欲のディスクリミネータだと、その空作動でも大きくプラスとなり風俗産業が栄えるわけである。

 大ざっぱな話、リンゴ1個の価値はそれを食べる人のディスクリミネータをどれだけプラスにするかによって決まる。

人気歌手が一回歌を歌いそれがCDとして100万枚販売されたとすると、100万人のディスクリミネータをプラスにしたのであるから、単純計算で100万倍の価値を持つ。もちろんCDの生産コスト、流通コスト、宣伝費、ライバル会社との競争等様々な要素も加味しなければならないであろうが、基本的には

財・サービスの価値=[他人のディスクリミネータをどれだけ大きくプラスにしたか]×[プラスにした人数]

により価値が決まる。このようにディスクリミネータの変動をうまく貨幣価値に置き換えることができたからこそ人間の行動をうまく経済活動が機能するように向けることができたのである。おおまかに言えば人がお金を得るために行動すれば、ディスクリミネータはプラスになり、種の保存は達せされる。もちろん例外はいつもある。例えば強盗殺人である。お金を得るために人を殺す。これが頻繁に横行するようになれば、貨幣制度は種の保存にとって有害なものとなる。しかしながら1年間に殺人事件で死ぬ人の総人口に対する割合は僅か0.0006%にすぎないし、強盗殺人に限ればもっと少ない。他人のディスクリミネータをプラスに変えることなしに金や物を取るのが、窃盗・詐欺・横領・偽造等であるが、これらを合計しても年間150万件程度であり、総人口のうち僅か1%余りの人が1年に1回だけ犯す勘定になり、年間の商取引の件数の1万分の1程度であり、貨幣制度がディスクリミネータとマッチして極めてうまく機能していることを示している。これがゆとりの生活を生み出す原動力になっている。

 

 

1993年、矢が刺さったカモがいることが発見されマスコミで騒がれ大きな同情がよせられた。誰かがカモに向けて矢を射ったのだろうが、急所を外れたため刺さったまま生き延びてしまったのである。連日のように報道され結局捕まえて治療して放したのであるが、この事件からしても我々のディスクリミネータがいかに単純で現実に即した動作をしていないかがわかる。なぜなら我々は毎日数億匹の動物の殺して食べているのである。その一方、国中で大騒ぎをしてたった一匹のカモを救った。
 この矛盾に満ちた行為も次のように理解できる。現代のゆとりの時代の裏には毎日数億匹を殺さなければならぬという現実があるのだが、それは生活の基盤となっていて誰もそれを問題にしようとしない。いわばこれは動物虐待でなく、工場での食料生産のラインに過ぎないのである。一方我々は現在ゆとりの時代にある。皆が食料を分け合い困っている人だけでなく、困っている動物まで助けてしまおうというわけである。食料生産ラインに乗った動物はここで言う動物ではなく物として扱われている。それ以外の動物は愛護すべきと考えている。なぜならゆとりの現代では、例外なくあらゆる動物に対して愛護することがディスクリミネータをプラスにするからである。ヤドカリとイソギンチャク等、多くの種で共生ということをする。犬や馬は人間の共生の相手としては都合が良かった。それだけではない。食料が足りているときは周りの動物はできるだけ傷つけないほうが良いのだ。なぜなら将来食料が不足してきたときは、生かしておいた周りの動物を殺して食べれば良いのだから。このことが「動物愛護」のディスクリミネータの意味である。そんなことを考えて矢ガモを救おうとしたわけではないと猛反発を受けること必死であるが、命令記憶のDIS-ROMに書き込まれている内容の意味を我々は知らないだけである。本来「動物愛護」のディスクリミネータが作動すべき動物の対象は自分の近所にいる動物で十分だ。マスメディアのお陰で、我々は1000kmもの彼方にいる動物の様子さえも簡単にチェックできるようになった。そんなに遠くの動物の様子を気遣っても無意味ではあるのだが(古代人の感覚からすれば)。

 実は矢ガモ事件は動物愛護のディスクリミネータをプラスにするための一つのショーであったのだ。何千万人という人のディスクリミネータがあの救済劇でプラスになったであろう。しかしあのカモを救ったから、これら何千万人という人の将来の食料確保に貢献したかというと、貢献度はほとんどゼロであるという意味で、これはディスクリミネータの空作動と結論できる。このように考えると矢ガモ事件は事件の報道というより、娯楽番組に近かったといえる。古代人にとって動物愛護の意味は、動物を可愛がり大きく育てた後で食べるという意味もあっただろう。それは現代でも家畜を可愛がり飼育した後、食料にしているのだから通じるものがある。

 もちろん人間は動物を救うことだけに快感を感ずるわけではない。人間を救う事に関してはさらに大きな快感を感じる。このときのディスクリミネータのプラスは極めて大きい。危機にさらされている人間を救うような状況はどんな時であろうか。誘拐事件が一つの例であり、この場合のニュースとしての扱いは非常に大きいのはそのような理由がある。しかし誘拐事件での死者の数は日本でのあらゆる原因の死者の数のせいぜい百万分の1程度であるから、種の保存の見地から考えればその意味は極めて小さい。そういう意味で誘拐事件の報道もほとんどディスクリミネータの空作動を助けているにすぎない。

 殺人事件の報道も多い。こちらの場合は誘拐報道に比べればもう被害者を救い出す方法は無い訳だから誘拐報道ほどの派手さはない。それにしても年間の死者の数が僅か750名程度にしては異常に取り扱う時間が長いのには理由がある。古代人の頭蓋骨に矢尻が刺さっていたのが見つかっているように古代人にも殺人はあった。その時代であれば、行動範囲が狭かったし入ってくる情報は近所での出来事しかなかっただろうから、それは近所で起こった殺人である。そうであれば明日は自分が殺されるかもしれないし、警察も裁判所も無い社会では自分達で警官の役割を果たさなくてはならなかっただろうし、裁きを下さなくてはならなかっただろう。現代はよほど運が悪くない限り殺人で命を落とすことは無い。警察も裁判所もしっかりしているので、それほど殺人に注意しなくてよい。全国で起こる殺人事件のほとんどは自分が具体的に何か行動を起こさなければならないわけでは無い。その意味で聞かされても余り意味が無い報道であるが、ディスクリミネータは殺人に注意をするようにと命じている。

 1986年に起きたグリコ森永事件を考えてみよう。金を出さねばグリコ製品に毒を入れると言い、実際毒入りチョコレートを店頭に置いた。この報道が過熱したために同様な事件が次々起こり多数の人が犠牲になった。報道を最小限にしておけばこのような犠牲者は出なかったのだ。同様な例はいくらでもある。1998年の和歌山カレー事件ではお祭りのカレー事件ではカレーにヒ素が混入され4人が犠牲になった。しかしその後の報道過熱のために次から次へと同様な事件が起きた。

 地下鉄サリン事件の後にも類似する事件が次々起き死者もでた。このような例は数え切れないほどある。最初に引き金になった事件は別として、それに続いて起こった一連の事件は事実上マスコミが引き起こした事件でありマスコミにその責任がある。倫理規定が定められていて誘発しないような配慮がなされていれば起こらなかった犯罪である。

 グリコ森永事件の意味をもっと詳しく分析しよう。犯人は金を要求した。ディスクリミネータの種類としては物欲であり古代人においては食料を確保したり生活に必要な物資を手に入れたいという欲求が現代では金が欲しいという要求に置き換わっている。犯人は他人を殺してでも物欲を満たしたいと思っている。このタイプの人間の存在意味については第八章で述べたとおりである。現在の環境では厄介者にされるが、種全体が窮地に追い込まれたときしぶとく生き抜くタイプである。犯罪としてはどこにでもある典型的なものである。

 マスコミの報道の意味はやじ馬とか好奇心を満たすとかという表現に近い。人のディスクリミネータはこのような事件に興味を持つよう命じる。毒入りチョコレートを食べれば自分だって死ぬのだから自分の防衛のため。簡単に金が手に入る方法があるかもしれないということに対する興味、あるいは犯人逮捕に協力しようとする気持。

 幾つかの事件の報道の例を挙げてみたが、これらの報道が良いか悪いかは微妙な問題である。

(1)なぜこれらの事件が大きく報道されるか。それは古代人にとってこの種の情報は自らの生活に密接に関わるものであり、ディスクリミネータが、これらの事件に関心を持つよう命ずるのは当然である。人々のディスクリミネータがプラスになれば、高視聴率となるので、放送局の収入が増えるという仕組みになっている。しかし現代では、これらの事件は自分たちの生活圏外で起きた出来事がほとんどであり、本来のディスクリミネータの目的から大きくはずれている。そういう意味では、知らされる必要が無い情報がほとんどである。そういう意味でこれはディスクリミネータの空作動である。

(2)ディスクリミネータの空作動は良いこととした。つまりこれらの事件をサスペンスドラマを見るように楽しむのであれば、それでよい。ただし次のような明らかな弊害がある。

 模倣犯がでてくる。犯罪のヒントを与える。

 必要以上に社会不安を起こすことがある。

(3)次のようなプラスの面もある。

犯罪に対する警戒を促すことができる。

 犯人逮捕を呼びかけることができる。

 犯人を逮捕した後は、刑を科して見せしめをすることができる。

 報道の在り方を検討するのであれば、これらの事柄を定量化しプラスとマイナスを加え、適切な報道とはどのようなものかを判断するのがよい。報道がもっと重大な影響を及ぼすこともある。1994年起きたルワンダ内戦では3カ月で80万人が虐殺されたという。その虐殺を煽ったのがあるラジオ放送であったといわれている。ヒットラーはマスコミをうまく利用して自分の独裁政治を遂行し、ユダヤ大量虐殺へと進んだのである。現代は保存が余裕をもって達成できる時代であるが、マスコミはその報道次第では世論を一気に動かすことができ、それによって種の保存が脅かされる可能性もある。

 人の死に関しては報道されることは多いが、自殺は殺人に比べ報道ははるかに地味であり、滅多に記事を見ることは無い。しかし年間の死亡者数は殺人が750名であるのに対し、自殺者は約30倍もの24000人もいる。どの人の命も同じ位尊いのであれば、なぜ自殺は注目されないのだろうか。その理由として考えられることは

(1)殺人の場合、続いて次々殺人を繰り返す恐れがありそれを防がなければならないが自殺はそれが無い。

(2)殺人の場合、自分も殺されるかもという警戒心がある。誰が殺されるか解らないという恐怖がある。

(3)自殺者の多くは、種の保存ということからはすでに役割を終えた老人が多く死がむしろ種の保存にとって良い影響をもたらすという気持ちが心の奥にあることも多い。

 老人の自殺が記事になりにくいというはっきりとした傾向がある。もちろん三島由紀夫などの有名人は別格である。なぜなら彼は小説を書くことにより多くの人のディスクリミネータをプラスにできる能力を持つ人であり、生き続ければさらに良い小説を書けるのにと惜しまれながら死んだから記事になったのだ。子供がいじめで自殺すれば、大きな記事になることがあるが、老人がいじめで自殺しても絶対に記事にはならない。それは種の保存に役目を終えた人の自殺には人々は関心を示さないということだ。

 1994年12月2日、愛知県尾西市の男子中学生がいじめで自殺したのをきっかけに一斉にマスコミがいじめ問題を集中して報じ始めた。それをきっかけに日本中がいじめ問題を議論するようになった。それまで見向きもされなかった小中学生の自殺も脚光を浴び始め自殺あるたびに大きく報道されるようになった。教育現場では誰か自殺するのではないかと先生がびくびくするようになり逆に生徒の方は自殺をほのめかしただけで先生は何でも自分の言いなりになると思うようになった。期末試験を中止しなければ自殺するという電話一本で学校全体の期末試験が中止するという事態にまで発展した。これらの報道合戦の結果いじめやその結果としての自殺は急増した。いじめが報道されなくなるといじめも減り教育現場にも元の平和が戻った。これもマスコミによって作り出された社会問題であり最初の中学生のいじめ問題で普通の報道だけしていたら起こり得なかった。いじめ問題が報道されなくなったきっかけは、ある中学校で注意を受けた中学生が持っていたナイフで女性教師を刺し殺すという事件があってからだ。それまでいじめ問題で学校側の非難を繰り返していたマスコミもこの事件で学校側だけを非難するわけにいかなくなり、いじめ報道が激減、その結果学校が再び正常に戻ることとなったわけだ。日本全国に数万もある学校のたった一生徒の引き起こした事件で全学校の先生が非難の的になること事態異常だし、その解決がたった一人の先生の死であるとは報道関係者が学校全体の把握を全く行っていないことを暴露した。いじめ問題をあのように大々的に報道するのであれば、(1)報道することによって学校側の注意を促すメリットと(2)報道によりいじめが連鎖的に発生するディメリットを比較しどこまで報道するかを決定すべきである。

 いじめ報道の是非は議論の余地があるところだが、我々のディスクリミネータは子供のいじめには関心があるが、老人のいじめには関心が無いことだけははっきりしている。種の保存から考えても当然だ。19才以下の自殺率は60才以上の自殺率の30分の1しか無く、自殺する者はほとんどいないのに、たまに自殺する子供がいると国を挙げて大騒ぎをする。ディスクリミネータが子供の命の方が老人の命より、はるかに重要だと考えている証拠だ。しかし表向きには口が裂けてもそのようなことは言わない。子供も大人も老人も仲良く励まし合って生きて行くことになっているからだ。

 マスコミはディスクリミネータの空作動に関しても大きな役割を演じている。他のどんな娯楽に使う時間よりテレビを見る時間は多いだろう。ドラマ、アニメ、スポーツ等典型的なディスクリミネータの空作動を利用した娯楽だ。映画、演劇、コンサート、各種芸術、旅行、各種テーマパーク等まで含め一つひとつの意味をディスクリミネータの見地から詳しく分析すれば逆に我々のディスクリミネータがどのような構造になっているかを知ることができる。それらのすべてがもともと種の保存にとってどのような意味をもっていたかが分かるはずである。

 逆にディスクリミネータの構造が定量的に理解出来るようになりコンピュータに入力すれば、ドラマのストーリーも人に最も感動を与えるストーリーをコンピューターで探せるようになるかもしれない。次の章では娯楽一般について述べてみよう。